幽灵谷

追求永无止境......
  博客园  :: 首页  :: 新随笔  :: 联系 :: 订阅 订阅  :: 管理

第21課学校週五日制の波紋

Posted on 2010-04-08 17:11  zhb6022  阅读(124)  评论(0编辑  收藏  举报

(だい)21() 学校週五日制(がっこうしゅういつかせい)波紋(はもん)

2002年度(ねんど)から、新学習指導要綱(しんがくしゅうしどうようこう)(もと)づいて、公立学校(こうりつがっこう)学校週(がっこうしゅう)日制(かせい)開始(かいし)された。それはこれまでの学校教育(がっこうきょういく)受験(じゅけん)()けた「知識偏重(ちしきへんちょう)()()教育(きょういく)」に(ひず)み、不登校(ふとうこう)校内暴力(こうないぼうりょく)、いじめなど「学校(がっこう)()れ」をもたらしたとの反省(はんせい)()って、子供(こども)たちが「ゆとり」をもって学習(がくしゅう)できるようにする、また、「学校(がっこう)家庭(かてい)地域社会(ちいきしゃかい)相互(そうご)連携(れんけい)しつつ、()どもたちに社会体験(しゃかいたいけん)自然体験(しぜんたいけん)など様々(さまざま)活動(かつどう)経験(けいけん)させ、(みずか)(まな)(みずか)(かんが)える(ちから)(ゆた)かな人間性(にんげんせい)、たくましく()きるための健康(けんこう)体力(たいりょく)などの()()きる(ちから)()をはぐくむ」という趣旨(しゅし)()って(おこな)われた教育改革(きょういくかいかく)であった。

 しかし、「ゆとり教育(きょういく)」のために学習内容(がくしゅうないよう)削減(さくげん)されたことで、マスコミなどは一斉(いっせい)に「学力低下(がくりょくていか)への不安(ふあん)」を(さわ)(はじ)めた。しかも、私立(しりつ)(しゅう)日制(かせい)実施(じっし)する学校(がっこう)が、わずか55%に()ぎないという状況(じょうきょう)(あき)らかになるとともに、公私間(こうしかん)(いま)まで以上(いじょう)学力格差(がくりょくかくさ)拡大(かくだい)するのではないかという不安(ふあん)(かさ)なって、(おや)教師(きょうし)たちからの不満(ふまん)噴出(ふきだ)した。改革(かいかく)推進(すいしん)すべき文部科学省(もんぶかがくしょう)は、こうした(おや)教師(きょうし)たちの(こえ)(こう)()れなくなり、「勉強(べんきょう)をしたい()どもがいれば、補習(ほしゅう)をしても問題(もんだい)はない。」と姿勢(しせい)転換(てんかん)したのだが、そのために公立学校(こうりつがっこう)でも土曜補習(どようほしゅう)などの取組(とりく)みが一気(いっき)(ひろ)がり、「ゆとり教育(きょういく)」の方針(ほうしん)にも矛盾(むじゅん)(しょう)(はじ)めたのである。これは文部科学省自(もんぶかがくしょうみずか)らが受験競争(じゅけんきょうそう)現状(げんじょう)追認(ついにん)したに(ひと)しく、教育改革(きょういくかいかく)(たい)する基本的(きほんてき)姿勢(しせい)さえ(うたが)われかねない事態(じたい)となったのである。

 学校週五日制(がっこうしゅういつかせい)完全実施(かんぜんじっし)をめぐる議論(ぎろん)(なか)で、()(かえ)(かた)られたのは「土日(どにち)()どもを家庭(かてい)(かえ)そう。」ということだった。()どもたちは、休日(きゅうじつ)()えたことを一様(いちよう)歓迎(かんげい)しているのだが、(おや)たちは学力低下(がくりょくていか)(さけ)ばれる(なか)で、()()をのんびりさせてしまっていいのか、複雑(ふくざつ)(おも)いの(なか)にいるがドミノ(どみの)(だお)しのように各地域(かくちいき)(ひろ)がるとすれば、学校五日制(がっこういつかせい)がなし(くず)しになる(おそ)れがある。

 この問題(もんだい)は、もう一度(いちど)教育改革(きょういくかいかく)原点(げんてん)()(かえ)って(かんが)える必要(ひつよう)がある。もし「学力(がくりょく)」を(いま)までのような「知識(ちしき)(りょう)」ととらえるのであれば、(おし)える時間(じかん)中味(なかみ)()れば、「知識(ちしき)(りょう)」は()るのだから、「学力(がくりょく)」は低下(ていか)するのは()たり(まえ)である。しかし、「知識(ちしき)(りょう)」のみで生徒(せいと)選別(せんべつ)する受験制度(じゅけんせいど)や、個性(こせい)無視(むし)した画一的(かくいつてき)授業(じゅぎょう)()しつけなど、「学歴(がくれき)知育(ちいく)偏重(へんちょう)()どもの荒廃(こうはい)()()している。」として、基礎基本(きそきほん)重視(じゅうし)したゆとりある教育(きょういく)個性(こせい)(おう)じて()どもの(ちから)を伸ばすための選択科目(せんたくかもく)拡大(かくだい)などの改革(かいかく)()()ったはずである。

 戦後(せんご)日本(にほん)は、欧米先進国(おうべいせんしんこく)()いつけ()()せとばかりに、先進国(せんしんこく)文化(ぶんか)学問(がくもん)知識(ちしき)吸収(きゅうしゅう)してきた。(たし)かに、その(さい)必要(ひつよう)学力(がくりょく)知識(ちしき)(りょう)であったが、(いま)日本(にほん)(もと)められている学力(がくりょく)は、国際化(こくさいか)する世界(せかい)にあって(あたら)しい日本を創造(そうぞう)していく(りき)(あら)たな技術(ぎじゅつ)文化(ぶんか)創造(そうぞう)していく(ちから)である。()()えれば、「(みずか)(かんが)え、課題(かだい)()つけ、主体的(しゅたいてき)課題(かだい)解決(かいけつ)していく(ちから)」こそ「(あたら)しい学力(がくりょく)」なのであり、「()きる(ちから)」に(ほか)ならない。

  「ナンバーワンになるよりも、オンリーワンに」と(うった)えるSMAPの「世界(せかい)(ひと)つだけの(はな)」が、中高生(ちゅうこうせい)若者(わかもの)(こころ)にしみ()んでいったのは、(けっ)して偶然(ぐうぜん)ではない。受験(じゅけん)出世競争(しゅっせきょうそう)()つことだけが人生(じんせい)ではないと、(かれ)らは()づき(はじ)めているのである。趣味(しゅみ)であれ仕事(しごと)であれ、(ある)いはスポーツであれ、(ひと)(みずか)らしたいと(おも)って(えら)んだことであれば、(だれ)(げん)われなくても自発的(じはつてき)(まな)ぼうとする。「()きる」とは、(まさ)一人一人(ひとりひとり)が「世界(せかい)(ひと)つだけの(はな)」(=個性(こせい))を()かせることであり、(ふたた)子供(こども)たちを学歴(がくれき)知育(ちいく)偏重(へんちょう)教育(きょういく)()いやるようなことがあってはならない。(おも)えば、強制(きょうせい)されていやいやすることを(あらわ)す「勉強(べんきょう)」という()を、学習(がくしゅう)意味(いみ)使(つか)日本人(にほんじん)教育観(きょういくかん)そのものに、そもそも問題(もんだい)があったのではないだろうか。