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第12課日清・日露戦争と日本帝国主義

Posted on 2010-04-08 17:06  zhb6022  阅读(176)  评论(0编辑  收藏  举报

(だい)12() 日清(にっしん)日露戦争(にちろせんそう)日本帝国主義(にっぽんていこくしゅぎ)

1894(ねん)、朝鮮での甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)()ばれる大規模(だいきぼ)反乱(はんらん)発生(はっせい)したのを契機(けいき)にして、日清両国(にっしんりょうこく)朝鮮(ちょうせん)出兵(しゅっぺい)し、日清戦争(にっしんせんそう)()こった。()ぎに義和団(ぎわだん)(らん)()こると、日本(にほん)主力(しゅりょく)とする8()()国連合軍(こくれんごうぐん)は、1900(ねん)北京(ぺきん)進駐(しんちゅう)した。(つづ)いて、満州(まんしゅう)占領(せんりょう)していたロシアが韓国(かんこく)勢力(せいりょく)()ばすや(いな)や、日本(にほん)日英同盟(にちえいどうめい)(むす)んでロシアに対抗(たいこう)し、 1904(ねん)にはついに日露戦争(にちろせんそう)勃発(ぼっぱつ)した。明治末期(めいじまっき)には日清(にっしん)日露(にちろ)という(おお)きな戦争(せんそう)()こったが、その勝利(しょうり)(つう)じて日本(にほん)歴史上初(れきしじょうはじ)めての海外植民地(かいがいしょくみんち)()()れ、帝国主義国(ていこくしゅぎこく)に転化していったと()える。

 みなさんは、福沢諭吉(ふくざわゆきち)という人を()っているだろうか。現在(げんざい)慶応大学(けいおうだいがく)創立者(そうりつしゃ)なのだが、一万円札(いちまんえんさつ)()っている人物(じんぶつ)()った(かた)がわかるかも()れない。この諭吉(ゆきち)は「(てん)(ひと)(うえ)(ひと)(つく)らず、(ひと)(した)(ひと)(つく)らず」という有名(ゆうめい)人間平等宣言(にんげんびょうどうせんげん)(しる)すとともに、西洋文明(せいようぶんめい)(まな)ぶことによって「一身独立(いちみどくりつ)一国独立(いちくにどくりつ)」すべきだと()いた学者(がくしゃ)で、明治を代表する思想的指導者であり、近代教育の祖とも言われる人物である。その諭吉でさえ、1985年には「脱亜論」を展開し、アジアを蔑視し、「朝鮮・中国と接する時は、ヨーロッパの国々が接するのと同じやり方で接すればいいのである。」と侵略を肯定するようになった。そして日清戦争に当たっては、「これは文明と野蛮の戦争であり、文明国日本にとって、清との戦いは正義の戦いである」と新聞に書くに至ったのである。日清戦争に対する日本国内の反応は「好戦気分」の洪水であった。

 日露戦争は薄氷の勝利であったとはいえ、アジアの小国日本が世界の大国ロシアを破ったというニュースは、日本人は言うまでもなく、19世紀以来、ヨーロッパの列強の侵略に悩まされてきたアジア諸国の人々を驚喜させた。独立後最初のインド大統領となったネルーも「日露戦争での日本の勝利は、アジアの民衆に民族独立への大きな希望を与えた」と書いている。ところが、日韓併合など、日本がその後にとった行動は、ことごとくアジア民衆の希望を裏切るものだった。日本はヨーロッパ列強諸国と手を結び、アジア支配に加わったのである。まさに「脱亜入欧」である。これを知ったネルーは、「しかし、気がつくと、それは希望を与えたのではなく、飢えた狼をもう一匹増やしただけであった。」と書き添えている。

 日本政府は日清戦争で得た賠償金をもとに金本位制を確立し、1901年に鉄鋼生産のために官営の八幡製鉄所が操業を開始し、兵器、造船など諸産業発展の基礎を作り上げた。こうした産業革命の展開の中で、三井家、岩崎家(三菱)などの政商が巨大な産業資本家となり、二つの戦争を通して財閥を形成するようになった。

 1912年明治天皇が没し、大正の世となった。1914年に第1次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を口実にして参戦し、翌年には中華民国の袁世凱政権に中国の主権を侵す「二十一カ条要求」をつきつけ、その大部分を強引に認めさせた。この第1次世界大戦はかつてない好景気を日本にもたらし、戦争成金が続出した。日本の輸出は1914年から1919年までの5年間で4倍以上に増加したばかりか、債務国から債権国へ転じ、工業生産額は農業生産額を上回り、工業国の仲間入りを果たしたのである。