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第11課明治維新と近代国家への道

Posted on 2010-04-08 17:05  zhb6022  阅读(284)  评论(0编辑  收藏  举报

(だい)11() 明治維新(めいじいしん)近代国家(きんだいこっか)への(みち)

日本(にほん)における最大(さいだい)政変(せいへん)といえば、やはり明治維新(めいじいしん)でしょう。当時(とうじ)日本(にほん)には、坂本竜馬(さかもとりょうま)高杉晋作(たかすぎしんさく)など、それこそ(いのち)がけで、革命(かくめい)青春(せいしゅん)(ささ)げた若者(わかもの)たちがいました。茶髪(ちゃぱつ)にピアス、路傍(ろぼう)にしゃがんでしゃべくっている最近(さいきん)若者(わかもの)()ていると、まさに隔世(かくせい)(かん)ですが、それはともかく、明治維新(めいじいしん)とはいったいなんだったのでしょうか。

 それは、1853(ねん)(がつ)3日午後(ごご)()、アメリカ(とう)インド艦隊(かんたい)司令官(しれいかん)ペリーが軍艦(ぐんかん)4(せき)(ひい)いて浦賀(うらが)(あらわ)れ、日本(にほん)(つよ)開国(かいこく)(せま)った(にち)(はじ)まります。阿片戦争(あへんせんそう)清朝(せいちょう)(やぶ)れたという報せは日本(にほん)にも(とど)いており、米艦隊(こめかんたい)(たたか)ったからといって、とても()()がないことは江戸幕府(えどばくふ)()っていました。江戸幕府(えどばくふ)対応(たいおう)をめぐって(じょう)(した)への大慌(おおあわ)てです。庶民(しょみん)はどうかといいますと、黒船(くろふね)()ようと浦賀(うらが)海岸(かいがん)()()せ、見物人(けんぶつひと)目当(めあ)ての夜店(よみせ)まで()たそうです。この黒船来航(くろふねらいこう)をきっかけに、幕府(ばくふ)鎖国政策(さこくせいさく)(くず)()り、ついに日本(にほん)にも植民地化(しょくみんちか)危機(きき)(しの)()ってきたのです。

 黒船来航以後(くろふねらいこういご)日本(にほん)では国内(こくない)開国(かいこく)攘夷(じょうい)か、佐幕(たすくまく)討幕(とうばく)かをめぐって分裂(ぶんれつ)し、()なまぐさい幕末動乱期(ばくまつどうらんき)突入(とつにゅう)しました。(さいわ)いなことに、イギリスは阿片戦争後(あへんせんそうご)中国民衆(ちゅうごくみんしゅう)反英闘争(はんえいとうそう)太平天国(たいへいてんごく)(らん)、インドのセポイ(せぽい)(らん)鎮圧(ちんあつ)武力(ぶりき)()かざるをえず、列強間(れっきょうかん)対立(たいりつ)にも(たす)けられ、日本(にほん)(かろ)うじて植民地化(しょくみんちか)危機(きき)を免れたのですが、このとき、もし日本(にほん)明治維新(めいじいしん)成功(せいこう)していなければ、(ひがし)アジア全域(ぜんいき)欧米列強(おうべいれっきょう)植民地(しょくみんち)にされていた可能性(かのうせい)否定(ひてい)できません。

 明治政府(めいじせいふ)成立(せいりつ)(1868(ねん))し、日本(にほん)富国強兵(ふこくきょうへい)殖産興業政策(しょくさんこうぎょうせいさく)(はしら)として近代国家(きんだいこっか)への(みち)(あゆ)(はじ)めました。そのときの意気込(いきご)みは、「()(じょう)誓文(せいもん)」(明治天皇(めいじてんのう))からもうかがえます。

五箇条(ごかじょう)誓文(せいもん)現代語訳(げんだいごやく)
一 衆知(しゅうち)(あつ)め、天下(てんか)政治(せいじ)はその意見(いけん)(したが)え。
一 上下(うえした)人々(ひとびと)(こころ)をひとつにして、いよいよ国家(こっか)()ませよ。
一 公家(くげ)武家(ぶけ)一体(いったい)となり、庶民(しょみん)までおのおの(こころざし)()げられるようにし、目標(もくひょう)()かう  人々(ひとびと)気持(きも)ちがあきないようにせよ。
一 これまでの攘夷運動(じょういうんどう)のような(ふる)習性(しゅうせい)()()り、諸国(しょこく)(した)しむという世界(せかい)(せい)しい  道理(どうり)(もと)づけ。
一 諸外国(しょがいこく)知識(ちしき)(もと)め、わが(くに)発展(はってん)させよ。
わが(くに)はかつてない変革(へんかく)(おこな)おうとしており、(ちん)()天皇(てんのう)()率先(そっせん)して、天地神明(てんちしんめい)(ちか)って(こく)方針(ほうしん)(さだ)めて万民(ばんみん)保全(ほぜん)(はか)ろうとする。庶民(しょみん)はこの趣旨(しゅし)(もと)づき、(こころ)をひとつにして努力(どりょく)せよ。

 明治新政府(めいじしんせいふ)版籍奉還(はんせきほうかん)徴兵制(ちょうへいせい)学校教育制度(がっこうきょういくせいど)地租改正(ちそかいせい)矢継(やつ)(ばや)政治改革(せいじかいかく)()()しました。これに(たい)して反発(はんぱつ)()こり、農民一揆(のうみんいっき)や士族の反乱(はんらん)があいつぎますが、1887(1887)(ねん)西南戦争(せいなんせんそう)平定(へいてい)で、明治政府(めいじせいふ)基盤(きばん)(かた)まり、明治維新(めいじいしん)一応完成(いちおうかんせい)されたと()えるでしょう。

 西洋文化(せいようぶんか)流入(りゅうにゅう)は、人々(ひとびと)生活様式(せいかつようしき)(おお)きな変化(へんか)をもたらしました。それは「文明開化(ぶんめいかいか)」と()ばれましたが、洋服(ようふく)(ひろ)まり、ちょんまげにかわって「ざんぎり(とう)」が流行(りゅうこう)し、煉瓦造(れんがづく)りの洋室建築(ようしつけんちく)出現(しゅつげん)し、牛鍋(うしなべ)などの肉食(にくしょく)が取り()れられました。この牛鍋(うしなべ)()の「すき()き」です。そして、ランプ、人力車(じんりきしゃ)鉄道馬車(てつどうばしゃ)(あらわ)れ、文明開化(ぶんめいかいか)のシンボルとなったのです。(なか)でも太陽暦(たいようれき)七曜制(しちようせい)採用(さいよう)は、人々(ひとびと)()らしを(おお)きく()えることになりました。当時(とうじ)俗謡(ぞくよう)は、当時(とうじ)のことを「ざんぎり(あたま)(たた)いてみれば、文明開化(ぶんめいかいか)(おん)がする。」と(うた)っています。