幽灵谷

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第10課日本人と察しの文化

Posted on 2010-04-08 17:05  zhb6022  阅读(641)  评论(0编辑  收藏  举报

(だい)10() 日本人(にほんじん)と (さっ)しの文化(ぶんか)

日本人(にほんじん)(はなし)(まわ)りくどいとか、「イエス・ノー」がはっきりしないとかよく()われます。 (たし)かに、日本人(にほんじん)商談(しょうだん)交渉(こうしょう)()でも、本題(ほんだい)関係(かんけい)のないような周辺的(しゅうへんてき)話題(わだい)から(はじ)め、(すこ)しずつ(はなし)核心(かくしん)(ちか)づくような話し(かた)をすることが(おお)いでしょう。欧米社会(おうべいしゃかい)のように、はじめに原則(げんそく)要求(ようきゅう)()べ、()ぎに交渉(こうしょう)(うつ)るといったやり(かた)は、日本(にほん)ではあまり(おこな)われません。なぜかというと、日本人(にほんじん)にとっての結論(けつろん)は、お(たが)いが最終的(さいしゅうてき)到達(とうたつ)すべき調和点(ちょうわてん)であって、「(はじ)めに結論(けつろん)あり」ではないからです。つまり、対立的議論(たいりつてきぎろん)をなるべく()けながら、お(たが)いがどこで()()えるかを(さぐ)り、合意点(ごういてん)(さぐ)るという帰納的発想(きのうてきはっそう)()つのが日本式(にほんしき)なのです。

 欧米人(おうべいひと)発想(はっそう)には、真理(しんり)(ひと)つであり、(せい)(よこしま)か、(ぜん)(あく)か、両者(りょうしゃ)永遠(えいえん)対立(たいりつ)するという発想(はっそう)があります。これは一神教(いっしんきょう)とも関係(かんけい)しているのかもしれません。しかし、古来(こらい)日本(にほん)神々(かみがみ)がどうすればいいか(はな)()って物事(ものごと)()める多神教(たしんきょう)社会(しゃかい)であり、正邪(せいじゃ)善悪(ぜんあく)立場(たちば)()われば()わるものであり、真理(まり)相対的(そうたいてき)であるという(かんが)えが根底(こんてい)にありますから、論争(ろんそう)是非(ぜひ)()めるといった(かんが)(かた)にはなじみにくいのです。日本(にほん)のように所属(しょぞく)する共同体(きょうどうたい)利益(りえき)集団内部(しゅうだんないぶ)の「()」を(なに)よりも重視(じゅうし)する社会(しゃかい)では、自己主張(じこしゅちょう)をできるだけ(おさ)え、相手(あいて)立場(たちば)感情(かんじょう)(かんが)えつつ発言(はつげん)したり、行動(こうどう)する傾向(けいこう)(つよ)くなります。

 (たと)えば、相手(あいて)から(さそ)われたり(すす)められたりして、(ことわ)らなければならないときも、日本人(にほんじん)なら「すみませんが、その()はちょっと、・・・」のように言葉(ことば)(にご)すことでしょう。「できません/お(ことわ)りします」といった拒絶(きょぜつ)言葉(ことば)使用(しよう)()けて、相手(あいて)(さっ)してもらおうとするからです。これが欧米(おうべい)(ひと)から「イエス・ノーがはっきりしない日本人(にほんじん)」と()われる由縁(ゆえん)ですが、日本人(にほんじん)は相手の(こころ)(きず)つけまいと(おも)って、()えて曖昧(あいまい)()(かた)をしているのですから、文化(ぶんか)(ちが)いと()うしかありません。また、ビジネスの()でよく誤解(ごかい)(まね)言葉(ことば)に、「検討(けんとう)させてください」「(かんが)えさせてください」がありますが、この言葉(ことば)日本人(にほんじん)(くび)(かし)げて()ったり、(かお)をしかめて()ったとすれば、十中八九断(じゅっちゅうはっくことわ)りを(あらわ)しています。ところが外国(がいこく)(にん)言葉(ことば)どおりに()()りますから、(あと)で「ノー」の意味(いみ)()ったとき、「日本人(にほんじん)(うそ)つきだ」と(おこ)ったりするのです。しかし、日本人(にほんじん)(めん)()かって「ノー」というのは相手(あいて)(きず)つけると(おも)い、婉曲(えんきょく)(ことわ)ったのです。

 島国(しまぐに)であったおかげで、異民族支配(いみんぞくしはい)()けたこともなく、ものの(かんが)(かた)にも同質性(どうしつせい)(たか)日本(にほん)のような社会では、言葉(ことば)によるコミュニケーションよりも、相手(あいて)()(かお)表情(ひょうじょう)相手(あいて)気持(きも)ちを理解(りかい)しあうことの(かた)大切(たいせつ)にする文化(ぶんか)が長い間続(あいだつづ)いてきました。これを「以心伝心(いしんでんしん)」とか「(さっ)し」の文化(ぶんか)とか()(ひと)がいますが、この言葉(ことば)によらない非言語(ひげんご)コミュニケーションを芸術(げいじゅつ)にまで(たか)めたのが、伝統芸能(でんとうげいのう)である「(のう)」の世界(せかい)でした。

 もちろん、これからの日本人(にほんじん)国際化(こくさいか)する社会(しゃかい)において、言葉(ことば)文化(ぶんか)(ちが)外国(がいこく)(ひと)とコミュニケーションをとるためには、自分(じぶん)意見(いけん)意思(いし)(ひと)誤解(ごかい)(あた)えないように、堂々(どうどう)主張(しゅちょう)できるようにならなければなりませんし、「(なが)いものには()かれろ」「()(くい)()たれる」と()われるような日本社会(にほんしゃかい)のマイナス(めん)克服(こくふく)すべきでしょう。

 しかしながら、それは(なん)でもかんでも欧米(おうべい)のやり(かた)()わせればいいというものではないはずです。それぞれの(くに)には、それぞれの歴史的(れきしてき)発展過程(はってんかてい)があり、それぞれの文化(ぶんか)伝統(でんとう)宗教(しゅうきょう)などの(ちが)いがあるのですから、世界(せかい)には(こと)なる価値観(かちかん)存在(そんざい)することを(みと)()いながら、共存(きょうぞん)できる世界(せかい)理想(りそう)だと(おも)うのです。