幽灵谷

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日本を語る全文

Posted on 2010-04-08 17:18 zhb6022 阅读(...) 评论(...) 编辑 收藏

第1課  日本列島(にほんれっとう)風土(ふうど)気候(きこう)

今の日本は四方を海に囲まれた島国ですが、1万年前の日本はユーラシア大陸とつながっていました。コンピューター処理された日本列島周辺の地形図(→9P)を見るとわかるように、白い部分は現在では浅い海なのですが、かつてはこの部分が大陸と地続きで、今の日本海(韓国名:東海)は大きな湖のようなものでした。それが今から約5000~6000年前、地球が温暖化し始めると、それに伴って海水面が上昇し、日本は大陸から分離して現在の形になったのです。

 さて、現在の日本列島は北海道、本州、四国、九州と、6800を越す小さな島々から成ります。国土面積は37万7873?(平方キロメートル)で、台湾の面積の約10倍、中国の雲南省より少し小さいぐらいです。しかし、日本という国は、最北端に択捉島、最東端に南鳥島、最南端に沖ノ鳥島、最西端に与那国島と広く点在していますから、沿岸から12海里とされる領海や、200海里とされる排他的経済水域を加えると、約447万平方キロメートルとなり、その広さは世界第6位と意外に広いのです。

 気候についてみると、日本は南北に約3000?あり、北の端が中国黒龍江省のハルピンとほぼ同じ緯度で、南の端が海南島の北岸と同じ緯度ですから、気候の地域差はかなりあります。例えば、流氷が接岸する北海道の根室の年平均気温(1961~90年)は5.9°Cですが、亜熱帯に属する沖縄の那覇では22.4°Cです。桜の開花も那覇では2月中旬ですが、北海道の札幌では5月上旬であり、3ヶ月近いずれがあります。

 また、日本は四季の変化が明瞭ですが、太平洋側と日本海側では気候に大きな違いがあるのが特徴です。それは夏は太平洋から南東季節風が吹き、冬は大陸から北西季節風が吹くからですが、日本列島は山脈が縦断しているので、季節風が吹きつける側は雨や雪が多くなり、山を越えると乾燥します。そのため、日本の気候は梅雨から夏にかけて雨が多くなる太平洋岸式気候と、冬に雪や雨が多くなる日本海岸式気候と、大きくは二つに分けることができます。夏の初めの梅雨は、しばしば日本に集中豪雨をもたらし、夏から秋にかけては、毎年のように台風が襲います。そのうちで日本列島に大きな災害をもたらすものは、9月の中・下旬に来襲する傾向がありますが、1959年の伊勢湾台風(死者・行方不明者5098人)以来、1000人を越す死者・行方不明を出す風水害は起きていません。

 その他、日本列島は環太平洋地震帯にあるため、地殻変動、断層活動、火山活動も活溌で、日本は地震多発国としても有名です。日本史上最大の被害をもたらした地震は1923年9月の関東大震災で、マグニチュード7.9、東京・横浜では震度7を記録、大火災の発生もあって、死者・行方不明者14万2800余人を出しました。1995年1月にも、マグニチュード7.3、震度7の直下型地震が阪神地区を襲い(=阪神・淡路大震災)、6433人の死者・行方不明者と推定10兆円の被害をもたらしました。

 そのため、日本では昔から人々が恐れるものを列挙して、「地震・雷・火事・親父」と呼んできたのですが、その一方では、古来、海の幸、山の幸に恵まれ、みずみずしい稲の穂が実るので、「瑞穂の国」と呼ばれたほど、自然環境の豊かな国でした。現在も日本の国土の約70%(パーセント)を占める山地は森林で覆われており、世界でもトップクラスの森林保有国なのです。

 

第2課 日本列島に住みついた人々

日本人の祖先はどこから来たのでしょうか。はっきりしているのは、日本が大陸から分離する前に日本列島地域に住んでいた人たちは、大陸の住人だったことです。その多くが北方系、或いは南方系のモンゴロイドであることは明らかで、日本語がアルタイ系言語(モンゴル語、満州語、朝鮮語など)に属することはよく知られています。蝦夷地(=北海道)にはアイヌ民族も住んでいましたが、その系統については定説はありません。

 やがて気候が温暖になると、日本列島には針葉樹林や大型動物にかわって落葉広葉樹林や中小動物が増え、人々は土器や弓矢や磨製石器を使うようになりました。この土器は縄目の文様を特徴とすることから縄文土器と呼ばれ、その生活文化を縄文文化と言います。縄文人は竪穴住居に住み、主に狩猟や漁労、木の実の採集によって生活していました。この時代は約1万3000年前から前400年ごろまで続きますが、縄文中期には、雑穀や陸稲、豆などを栽培するなど、原始的な農耕を行う地域が生まれています。

 紀元前5世紀末になると、中国大陸からの影響を受けて、縄文文化にかわる新しい文化が九州地方に生まれました。この文化は褐色で薄手の弥生土器を伴うことから弥生文化と呼ばれますが、青銅器や鉄器などの金属器を使用し、水稲農耕を行い、村落生活を営んでいます。これらを伝えたのは朝鮮半島から渡ってきた人たちで、この水稲農耕は半世紀経つか経たないうちに東北地方にまで広がりました。この弥生時代を通して、半島からの渡来人と縄文人との混血が進み、現在の日本人の祖先となるのですが、この弥生時代は小国乱立と戦乱の時代でした。その混乱を収束させたのが、4世紀中頃に成立した日本最初の統一政権である大和朝廷です。この大和の大王が、後に天皇と呼ばれるようになります。

 当時の日本は中国から「倭」と呼ばれていました。中国の史書「後漢書」や「魏志倭人伝」には、「倭国は紀元前後には100余国に分かれていたが、長い倭国大乱を経て、3世紀ごろには卑弥呼を女王とし、約30の小国が従う邪馬台国が生まれた。」と記されています。また、「魏志倭人伝」には「男はみな入れ墨をする。女子は髪を束ねて、布の中央に穴をあけ、そこから頭を出して着ている。気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足で生活している。人は手づかみで食べ、酒好きで、100歳や80~90歳くらいまで長生きする人が多い。」とも書いてあります。確かに、生野菜を食べる、酒好き、長生きなど、現代日本人にも通じますね。

 ちなみに、国家統一を実現した大和朝廷の時代になると、日本人は「倭」という言葉を嫌い、同音の「和」という漢字をあてるようになります。これが「和語」「和食」などでなじみの「和」の起源です。

 一方、北の蝦夷地に住むアイヌ民族は倭人のことを「シャモ」(「隣人を意味する語)と呼びました。その名前のとおり、倭人とアイヌ民族は、縄文以来、お互いに隣人として平和的な交易関係を結んでいました。しかし、15世紀になると、倭人のアイヌの地・北海道への侵攻が強まりました。この倭人の侵略に対してアイヌ民族は何度も蜂起し、大きな戦いを繰り広げましたが、最終的には敗北し、江戸時代には松前藩の支配下に置かれました。そして明治以降は、アイヌ民族を「旧土人」と蔑視する明治政府の強圧的な同化政策が行われたため、アイヌ固有の慣習・文化はほとんど途絶え、現在では民族の人口も2万7000~8000人へと大幅に減ってしまったのです。

 

第3課 日本国家の誕生と天皇

日本には表のような国民の祝日がありますが、この中で一番わかりにくいのは建国記念日でしょう。

 日本最古の歴史書「古事記」「日本書紀」に、紀元前660年に初代の天皇(神武天皇)が即位したと書いてあり、その日が今の暦で2月11日に当たるので、建国記念日となりました。しかし、これは神話世界の話であり、科学的な根拠があるわけではありません。

 この神武天皇には東征神話があり、それによると、45歳のとき、船軍を率いて日向(=宮崎県)を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(=大阪)に上陸して大和に向かったが、土地の豪族の軍に妨げられ、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入り、土豪たちを征服し、大和平定に成功したとあります。もしこれが正しいとすれば、4世紀半ばに成立したという大和政権は、畿内豪族が連合して築いたという通説と異なり、九州地方にいた王族によって作られた征服王朝ということになります。まあ、どちらが正しいかはともかく、4世紀に統一国家大和が成立し、飛鳥・奈良・平安時代と天皇・公家の政治が続きます。以後、1185年に鎌倉幕府が樹立され、政治の実権が朝廷・公家から武家の手に移り、武家政治が室町幕府、織田・豊臣政権、江戸幕府265年間と約7世紀続きます。この武家政治に終止符を打ったのが、1867年の明治維新です。

 さて、今の平成天皇明仁は125代目で、なんとこの皇室は1500年以上続いていることになりますが、世界でこんなに長く生き延びた王族はありません。それが可能だったのは、おそらく天皇が直接政治に携わらなかったからでしょう。天皇が実際に国の権力を握って政治を行ったのは7世紀からの2世紀ぐらいで、明治維新後は大日本帝国の元首とされた天皇でしたが、神格化され、祭り上げられた存在で、政治の実権は藩閥官僚や軍部が握っていました。事実、明治・大正・昭和を通して、天皇が政府や帝国議会の政策決定に口を挟んだことはなく、天皇が下した唯一の裁断は、昭和天皇のポツダム宣言の受託だったと言われています。

 ところで、「日本」という国号ですが、いつから使われるようになったのでしょうか。もともと日本の国は「やまと」と言いました。それが大化の改新のころから、東方の「日の本」(日の昇るところ)という意味から「日本」と書いて「やまと」と読むようになったのです。それをニホン・ニッポンと音読するようになったのは、奈良時代(710~784)以降だと言われています。

 では、「日の丸」(国旗)、「君が代」(国歌)はどうでしょうか。「日の丸」は古くから武家の家紋や南蛮貿易の船籍を示すものとして使われていましたが、公式には江戸幕府が幕末期に日本総船印として使うことに決めたのが最初です。続いて明治政府も太政官布告で郵船・商船に「日の丸」を掲げることを定めましたが、一般的にはこの時が「日の丸」が国旗になった日とされています。「君が代」については、それが初めて演奏されたのは、1880年、明治天皇の誕生日の場です。以後、事実上の国歌として扱われるようになりました。このように「日の丸」も「君が代」も天皇制国家の成立と不可分なものでしたから、戦後はその是非をめぐって、学校教育の現場などで激しい議論が闘わされてきました。1999年の「国旗・国歌法」で法律的には国旗・国歌とされたのですが、今も「日の丸」「君が代」の強制に反対する意見は根強くあります。

 

第4課 「かな」の発明と日本語の世界

今でこそ日本語は漢字、ひらがな、カタカナと三種類の文字を使って表していますが、もともと日本には固有の文字がありませんでした。そのため、大陸から伝わった漢字の音を使った万葉仮名を発明し、日本語を表していました。それは「安(あ)、加(か)」などの音仮名と、訓を使った「三(み)、女(め)」などの訓仮名とに大きく分類されますが、中国語でイタリアを「意大利」と書くのと同じだと思えばいいでしょう。

 仮名はこの万葉仮名から生まれました。一音一音に漢字を充てていたのでは時間がかかるため、偏やつくりだけを使って作られたのがカタカナで、例えば「伊」と書いていたものを「イ」と書き、「呂」を「ロ」と書きました。一方、漢字をくずした草書体から生まれたのがひらがなで、「以」がくずれて「い」となり、「波」から「は」ができました。仮名が使われるようになったのは平安時代初期と言われますが、この仮名が発明されてはじめて、日本人は自らの感情を自由に文字で表せるようになったと言ってもいいでしょう。このひらがなは、はじめは女性が手紙などを書くときに使っていましたが、「源氏物語」や「枕草子」などの女流文学作品がひらがなを用いて著されると、男性も使うようになり、以後、ひらがなは「文学のための文字」として貴族の間に広く浸透しました。

 言語というのは、その国、その民族の文化の根底にあるもので、本人が自覚しているかどうかにかかわらず、その民族の自然観・人生観が刻まれており、国民性をつくり出しています。例えば、日本人は「お茶が入りました。どうぞ」と自動詞を使いますが、中国人は他動詞を使います。日本人が「魚が釣れた」と自動詞を使うとき、中国人が「魚を釣った」と他動詞を使います。ですから、中国名「釣魚島」は、日本名が「魚釣島」なんですね。また、希望を表すとき、英語や中国語では動詞を使いますが、日本語では「~たい」と形容詞を使います。好悪の感情を表すときも、「好く」「嫌う」という他動詞を使わないで、「好き」「嫌い」という形容動詞を使います。

 このように日本語には自動詞や形容詞などの状態性の表現を好み、意志性の表現を避ける傾向があるのですが、ここに欧米の「対自然」の文化と日本の「即自然」の文化の違いがあると指摘する学者もいます。この言語が持つ自然に対する態度は根元的なもので、個人の社会観や生活観にまで及んできますから、日本人の自然や世の流れにそって生きることを重んじる傾向や、自己主張するよりも周りとの調和を第一にする精神風土と、自動詞・「なる」や形容詞好きの日本語は、どこかで結びついているのかもしれません。

 また日本語は幅広い敬語体系を持っていますが、それは韓国語のように場面や聞き手に関係なく、常に一定の敬語を使う絶対敬語ではなく、例えば自分の会社の木村社長のことを、顧客に対しては「木村はただ今出かけております。」と呼び捨てにし、謙譲語を使うなど、場面と相手によって使い分ける相対敬語です。そのため、話し手は絶えず話し相手や話題の人物との社会的な関係がどうかに気を配らなければなりません。日本人がビジネス以外にも、初対面の人とは頻繁に名刺を交換するのは、日本人にとって相手の所属する会社名と役職などの肩書きを知ることがコミュニケーションする場合の最優先課題だからです。ですから日本人は名刺を受け取ると、名前ではなく、真っ先に肩書きに目が向かうんですね。

 このように言葉と文化は切り離せない関係があるのですが、外国語学習にとって大切なのは、この言語や生活行動の背後にある「見えない文化」の違いを知ることではないかと思います。この「見えない文化」の違いを理解していないと、コミュニケーション・ギャップが生じがちなのです。

 

第5課 民話「桃太郎」の誕生

岡山県には、吉備津彦をお祀りした吉備津神社があります。「吉備津造り」という美しい建築様式の神社で、山陽道では代表的な古い神社です。 この神社の縁起には、吉備津彦が大和朝廷から備讃海峡一帯を支配する温羅一族と呼ばれる鬼の退治を命じられたという話が記されていますが、この伝説をもとにして民話「桃太郎」が生まれたと言われています。

 では、ちょっとこの民話の世界を覗いてみましょう。

 昔、昔ある所に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。二人には子供がいませんでした。ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。

 おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が どんぶらこどんぶらこと流れて来たので、おばあさんは桃を拾うと、家に持って帰りました。おじいさんが帰ってきたので、桃を食べようと、まな板に乗せたたとたん、桃がぱっと割れて、中からまるまるとした男の子が飛び出しました。おじいさんとおばあさんは、桃から生まれたので、その子を「桃太郎」と名づけ、桃太郎を大事に大事に育てました。

 桃太郎は、一杯食べれば一杯分、二杯食べれば二杯分大きくなりました。ひとつ教えれば十まで覚え、とても賢くてたくましい若者になりました。そのころ、悪い鬼が村を襲っては娘を連れ去ったり、宝物を奪ったりしていました。

 ある日、桃太郎はおじいさんとおばあさんに 鬼が島へ鬼退治に行きたいから、きび団子を作ってほしいと、手をついて頼みました。 おじいさんとおばあさんは一生懸命引き止めましたが、桃太郎の気持ちは変わりません。そこで、きび団子を山ほどこしらえて、桃太郎に持たせました。 桃太郎が村はずれを通りかかると、犬が「鬼が島へお供しますから、きび団子をひとつ下さい」とやって来ました。桃太郎は「このきび団子は十人力だぞ。」と言って団子を分けてやりました。同様に猿ときじもやって来て、きび団子をもらって桃太郎の家来になりました。

 桃太郎たちは鬼が島を目指して荒海へと乗り出し、日も夜もなく一心に漕ぎ、やがて鬼が島に着きました。皆、日本一のきび団子を食べているので恐いものなしです。そして、さらってきた娘たちに酒を注がせて、酒盛りをしている鬼たちを懲らしめました。

 鬼の大将は両手をついて、「もう悪いことはしませんから、命だけは助けてください。」と謝り、盗んできた品々を差し出しました。桃太郎は鬼を許してやり、さらわれた娘たちと宝物を舟に乗せて、おじいさんとおばあさんの待つ村へ帰りました。めでたし、めでたし。

 さて、桃から生まれた桃太郎とよく似た伝説は、古くからアジア各地にあります。古代中国にも赤ん坊が入ったつぼが流れてくる話があり、南方の島にも、赤ん坊が入った果物が浜に打ち寄せられる話があります。たぶん、それらの伝説が吉備津彦の鬼退治伝説や中国の勧善懲悪思想と結びついて、民話「桃太郎」が誕生したのでしょう。

 この民話「桃太郎」は、スイスで世界の童話を全部集めて学者たちが検討したところ、世界で一番おもしろくてためになる童話という評価を受けたということです。めでたし、めでたし。

 

第6課 和室の安らぎは自然の温もり

日本を離れ、海外に長くいると、むしょうに日本が恋しくなることがあります。そんな時、決まって思い出すのが、畳敷きの和室、湯風呂、そして焼き魚とみそ汁です。いわゆる和風の生活なのですが、恋しいのは生活スタイルだけではなく、目に見えない文化のような気がします。

 言うまでもなく、人間は生まれ育った気候、風土、地形などによって生活のあり方を根本から規定されています。例えば、乾燥し、荒涼とした風土であれば、人間は自然に対して意志的になり、対抗的になると言われます。逆に日本のように温暖で自然に恵まれた風土であれば、人間は自然に従い、自然の恵みをそのままに受容する生活を求めます。実は和風の生活の根っこにあるのは、この自然に即した生活であり、それが日本人である私に安らぎを与えてくれるのではないかと思うのです。

 最近、和室というと単に畳敷きの部屋を指すようになりましたが、本来はいろりを囲む居間と、床の間のある座敷という2つの空間から作られていました。居間が家族の団欒の空間であるとすれば、座敷は特別な行事や接客のための空間で、ふたつはふすまや障子で区切られているだけですから、開けると続き部屋になりました。また日本では、毎日夜に布団を敷き、朝たたんで片づけますが、そのための押し入れが各部屋に付いているので、同じ部屋を広く色々な目的のために使えます。この伸縮自在性と多目的性こそ和室の特徴で、寝室、リビング、ダイニングのように用途別に区切られた洋室とは大きな違いがあります。和室が色々なものを包む風呂敷だとすれば、洋室はいわば用途別に作られた鞄のようなものです。

 この木造の和風建築と和室は、雨が多くて多湿な日本の風土にはぴったりの住居でした。木は呼吸し、湿度を自動調整してくれますし、畳はもともと寝具のひとつであり、夏は涼しく、冬は保温力があります。しかも、い草の温もりと香りは、生物たちが大地や森に抱かれたような感覚、ある種の安心感を与えてくれます。ですから、日本人なら誰でも庭がついた木造一戸建ての和風の家を持ちたいと思うのですが、都市部の地価はとても高く、その上、建築費が欧米の2倍以上もするので、一般庶民にはとても手が届きません。

 そこで現代建築は、アパートや公団のように集合住宅化したり、耐震構造の高層ビル化し、部屋も冷暖房完備、換気、給水、排水設備の整った箱型になり、それぞれが個室化しています。ところが、これほど建物も部屋も欧米化したにもかかわらず、日本人は畳の生活を捨てようとはしません。風呂・洗面・トイレが一つに組み込まれた洋式のバスルームも日本人にはなじみにくく、依然として風呂とトイレが別室で、肩まで浸かる伝統的な湯風呂が主流です。それは、日本人にとって風呂は、ただ汚れを落とすだけのところではなく、心と体の疲れをとる安らぎの場だからです。

 ここには欧米風の生活と文化を取り入れながらも、一方では伝統的な和風の暮らしを頑固に守り続ける日本人のもう一つの姿があります。和洋折衷と言ってもいいと思いますが、これは日本人が異文化や海外の進んだ技術を受け入れるときの基本スタイルのようです。

 さて、一時期、「兎小屋に住む日本人」と欧米の人にからかわれたことがありますが、最近の新築住宅の平均の広さは100?で、欧米並みになっています。ただ、バブル崩壊で安くなったとはいっても、3DKの新築マンションは年収の10倍近くしますから、一般サラリーマンが兎小屋を抜け出すのには、まだまだ少し時間がかかりそうです。

 

第7課 季節感を味わう日本料理

日本列島は春夏秋冬の別がはっきりしていて、それぞれの季節で産物が異なります。それらをおいしく食べるには、材料と調理法に季節感を出すこと大切で、食材の持ち味を生かして調理する必要がありました。そのため、日本料理では強い香辛料をあまり使いません。そして、ほとんどの料理が、主食である米と日本酒に調和するように作られています。

 食材として獣肉を使うことも極めて少なく、これが日本料理を淡泊な味にしている要因の一つです。これは肉食を禁止していた仏教の影響が大きいです。仏教が国教扱いされた飛鳥・奈良時代には、「野獣は食べてよいが、家畜は食べるな」という禁令が再三出されています。以後、明治に入って洋食が広まるまで、庶民が牛や豚などの肉を食べる機会はほとんどありませんでした。そして日本では野菜と魚貝類が中心の食卓になるのですが、料理にうま味を出すために使われるようになったのが、昆布、かつお節などの独特の「だし」であり、室町後期に始まり江戸時代に普及した醤油です。醤油は日本料理になくてはならない調味料であり、この醤油があったからこそ、煮物や生の魚を用いた料理が発達したと言っても過言ではないでしょう。

 また、日本料理は「目で楽しみ、舌で味わう」と言われるように、外形の美しさを尊重して、盛つけの技術とか食器との調和とかの美しさを重んじます。そこで食器が大切になるのですが、日本料理は原則として1点1人前盛りですし、季節や行事・料理に応じて器を使い分けますから、器の種類や数も自ずと多くなります。 今の日本料理の基礎が出来上がったのは鎌倉・室町時代と言われていますが、日本料理の食事の作法が確立したのもこのころです。今では知っている若者も少なくなっていますが、代表的な作法を紹介しましょう。

 姿勢を正して音をたてないで食べること。食べたあとは膳や皿の上を片づけること。こみ箸(箸の先で料理を口に押し込む)、移り箸(菜から菜を続けて食べる)、さぐり箸(器の中を箸でかき混ぜて自分の好きなものをとる)、もぎ食い(箸についている食べ物を口でもぎ取る)をしないこと。骨つきの魚は目の下から箸をつけ、上身を食べたら中骨を外して下身を食べ、骨は皿の隅にまとめることなどです。

 友だち同士で食事をするときは、それほど気にしなくてもいいのですが、将来、料亭などで会食するような機会もあるでしょうから、覚えておいて損はしないでしょう。

 さて、日本には二大食文化があります。よく挙げられるのが、上方(関西)のうどんと江戸(関東)のそばの味の違いです。江戸はその後背地が信州など土地の痩せたところが多かったので、そこで育ったそばをおいしく食べるためのそば文化が発達しました。関東のそばのつゆは、濃口醤油とかつお節をたっぷり使った濃厚なつゆで、その黒いつゆをちょっとだけそばにつけて食べます。それに対して上方のうどんは、昆布から引き出したうま味に薄口醤油を合わせて、半透明のまろやかなつゆを作り、じゃぶじゃぶつけるどころかつゆもいっしょに飲んでしまいます。彼らにしたら、関東の飲めないつゆなどつゆじゃない、となります。また、関西人には納豆は食べる習慣がありませんから、おいしそうに納豆を食べている関東人を見て、なんであんな気持ちが悪いものが食べられるんだろう、となります。そうして関東の味と関西の味について、「どちらがうまいか」と勝負のつけようがない論戦が始まるのです。

 

 

第8課 茶の湯の心は「一期一会」

 茶の湯というのは、亭主と客が寄り合い、喫茶を介して心をかよわせることで、亭主は空腹しのぎ程度の簡単な料理を出し、抹茶をたてて、もてなすところから始まりました。この茶の湯は、茶会を一生に一度の出会いの場ととらえ、相手に誠意を尽くすという「一期一会」の精神を究極の姿としています。

 唐代末の中国では、飲茶の習慣は広く行き渡っていましたが、日本に伝わったのは平安時代で、飲茶はまだ寺院の儀礼的なものにとどまっていました。その飲茶が広まったのは、鎌倉時代に禅僧栄西(1141~1215)が「喫茶養生記」を源実朝に献じてからで、それ以後、喫茶が武家社会に広まるのですが、当時は薬用だったようです。このころのお茶は抹茶であり、茶筅でかきまぜて飲む、挽茶あるいは碾茶ともいう粉末にした緑茶でした。この抹茶の茶会が茶の湯へと発展するのですが、抹茶は中国では宋代にのみ行われ、明代以降は廃れてしまいましたから、今では日本にしか残っていません。

 茶の湯は織田信長、豊臣秀吉に仕えた千利休(1522~91)によって大成されますが、それは時間(点前作法)から空間(茶室、露地)にわたるもので、新たに楽茶碗や竹の花入れなどを加えた創造的なものでした。利休は茶の湯の心は「わび」であり、「わび」とは春を待つ雪間の草のように、清楚にたくましく生きようとする生命の強さだと弟子に教えています。無駄なく、ぎりぎりまで切りつめた極小の茶室、土壁の床におかれた青竹の花入れには生き生きとした野の花、清閑な空間に張りつめる生命感、そこには人をもてなす暖かい心づかい、奢侈も権威も不用とする思想が根底にあります。この権力者に媚びない千利休の言動は、後に秀吉の怒りを買い、利休は死を命じられ、自刃して亡くなります。しかし、この「わび」の精神は茶の湯のみならず、芭蕉の俳諧にも受け継がれ、静寂な観賞的な態度で物事を観察する「さび」の観念とも結びついて、日本人の美意識にも大きな影響を与えることになります。

 茶の湯と並んで日本の伝統芸術とされるものに生け花があります。山野に咲く美しい草、花、木を部屋を飾るという行為は、洋の東西を問わず、古くからあらゆる民族に見られる人間の自然な行為です。しかし、それが日本において、生け花という独自の文化として発展したのは、西洋のように花を「盛る」「飾る」のではなく、「生(活)ける」という考え方に立つからでしょう。千利休は、「花は野に咲くように」と言いましたが、この花は野にあるそのままが美しいのだから、飾り立てるのではなく、野にあるがままに入れるのがよいという考えは、生け花の精神にも通じるのです。一言で言えば、「草木の持つ生命力とその美を生かす」ことが「生(活)ける」であり、植物を介して、その彼方にある自然を敬う心をもつことが生け花の心なのです。

 このように茶の湯にせよ、生け花にせよ、その底を流れるのは世俗の名利や欲望から離れ、自然を敬い、自然と共に生きようとする心であり、だからこそ芸術の域に達したのかもしれません。

 これらは江戸時代には儒教の影響で「家」や「道」の思想と結びつき、流派ごとに分かれ、師匠と門弟で組織される家元制度の移行していくことになりました。それにしたがって、茶の湯は「茶道」、生け花は「花(華)道」という呼称も使われるようになりました。

 

第9課 神道と日本人の宗教観

外国の人たちにとって、日本人の宗教観はとても理解しがたく、奇異に見えることが多いらしい。子どもが生まれたら神社にお詣りし、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、死んだらお寺で葬式を挙げるといったことは、キリスト教やイスラム教など、一神教の世界に住む人々には信じられない現象だからだ。

 朝日新聞が1995年に行った調査では、個別の宗教に対する信仰は、仏教系26%、神道系2%、神仏両方1%、キリスト教系1%となっている。信仰をもっている人々の割合は約30%で、諸外国に比べてもかなり低いのである。 ところが日本の半数以上の家庭は家に神棚や仏壇が祀ってある。神棚や仏壇を祀っているからには、信仰を持っていてもいいはずなのだが、実は当の日本人には信仰をもっているという自覚はないのである。

 日本の古い民族信仰は、「八百万の神」と言われるように自然崇拝の多神教であり、太陽、月、海、山、川、木、また雷、風などの自然物、自然現象などに神聖さや恐れを感じ、それを神として敬うものであった。やがて水稲栽培の普及とともに弥生期に入り、氏族社会に移行し始める。そこでは氏族構成員がそのまま宗教集団となって氏神を祀り、災厄を免れ、五穀豊穣を祈り感謝する農耕儀礼と結びついた共同祭祀が行われていた。豊作を祈る春の祈念祭と、実りを感謝する秋の収穫祭が最大のものだが、それを行うのが神道であり、特定の教義もなく、宗教というよりも、むしろ祭りだったのである。

 仏教が伝来し、奈良時代には国家仏教政策が進められたが、宮中においては、依然として仏事と神事のどちらも行われていた。教義を持たず、共同体に加わるものを全てを受容する神道は、仏も神の一人として受けいれたのであり、神社では神仏習合が進められた。その長いプロセスを通して、日本人の脳裏には、もっぱら人間の生にかかわる通過儀礼を受け持つのが神道、人間の死にかかわる通過儀礼を受け持っているのが仏教という棲み分けが生まれたと言うこともできる。日本人にとっては、神道と仏教は相互補完的なのものであり、あまりにも生活慣習と密着しているために、宗教とは意識しにくいのである。

 しかし、外国の人は正月の初詣の光景を見て驚く。初詣客の最も多い東京の明治神宮には、正月三箇日に300万人を越える人々が参拝するが、イスラム教徒のメッカへの巡礼でも、それほど多くの人間が一度に一つの場所に集まることはない。日本人には宗教行動だという意識はなくても、宗教施設への参拝は、外国の人から見れば宗教行動そのものなのである。

 こうして多くの異国の神々を受け入れてきた神道であったが、明治維新後は大きく様変わりすることになる。なぜなら明治政府は、「万世一系」の天皇を頂点とする日本の支配体制を正当化するために、天皇を「現人神」とする国家神道を確立しようとしたからである。全国に廃仏毀釈運動を起こし、学校でも天皇・皇后の肖像である「御真影」への最敬礼、教育勅語の奉読、「君が代」斉唱などが義務づけられた。この維新から敗戦までの一時期は、日本のような伝統的な多神教社会では、一神教が国民に強制された極めて異常な一時期だったと言える。

 

第10課 日本人と 察しの文化

日本人の話は回りくどいとか、「イエス・ノー」がはっきりしないとかよく言われます。

 確かに、日本人は商談や交渉の場でも、本題と関係のないような周辺的な話題から始め、少しずつ話の核心に近づくような話し方をすることが多いでしょう。欧米社会のように、はじめに原則や要求を述べ、次ぎに交渉に移るといったやり方は、日本ではあまり行われません。なぜかというと、日本人にとっての結論は、お互いが最終的に到達すべき調和点であって、「初めに結論あり」ではないからです。つまり、対立的議論をなるべく避けながら、お互いがどこで折り合えるかを探り、合意点を探るという帰納的発想に立つのが日本式なのです。

 欧米人の発想には、真理は一つであり、正か邪か、善か悪か、両者は永遠に対立するという発想があります。これは一神教とも関係しているのかもしれません。しかし、古来、日本は神々がどうすればいいか話し合って物事を決める多神教の社会であり、正邪・善悪は立場が変われば変わるものであり、真理は相対的であるという考えが根底にありますから、論争で是非を決めるといった考え方にはなじみにくいのです。日本のように所属する共同体の利益と集団内部の「和」を何よりも重視する社会では、自己主張をできるだけ抑え、相手の立場や感情を考えつつ発言したり、行動する傾向が強くなります。

 例えば、相手から誘われたり勧められたりして、断らなければならないときも、日本人なら「すみませんが、その日はちょっと、・・・」のように言葉を濁すことでしょう。「できません/お断りします」といった拒絶の言葉の使用を避けて、相手に察してもらおうとするからです。これが欧米の人から「イエス・ノーがはっきりしない日本人」と言われる由縁ですが、日本人は相手の心を傷つけまいと思って、敢えて曖昧な言い方をしているのですから、文化の違いと言うしかありません。また、ビジネスの場でよく誤解を招く言葉に、「検討させてください」「考えさせてください」がありますが、この言葉は日本人が首を傾げて言ったり、顔をしかめて言ったとすれば、十中八九断りを表しています。ところが外国の人は言葉どおりに受け取りますから、後で「ノー」の意味と知ったとき、「日本人は嘘つきだ」と怒ったりするのです。しかし、日本人は面と向かって「ノー」というのは相手を傷つけると思い、婉曲に断ったのです。

 島国であったおかげで、異民族支配を受けたこともなく、ものの考え方にも同質性が高い日本のような社会では、言葉によるコミュニケーションよりも、相手の目や顔の表情で相手の気持ちを理解しあうことの方を大切にする文化が長い間続いてきました。これを「以心伝心」とか「察し」の文化とか言う人がいますが、この言葉によらない非言語コミュニケーションを芸術にまで高めたのが、伝統芸能である「能」の世界でした。

 もちろん、これからの日本人は国際化する社会において、言葉も文化も違う外国の人とコミュニケーションをとるためには、自分の意見や意思を人に誤解を与えないように、堂々と主張できるようにならなければなりませんし、「長いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」と言われるような日本社会のマイナス面は克服すべきでしょう。

 しかしながら、それは何でもかんでも欧米のやり方に合わせればいいというものではないはずです。それぞれの国には、それぞれの歴史的な発展過程があり、それぞれの文化や伝統、宗教などの違いがあるのですから、世界には異なる価値観が存在することを認め合いながら、共存できる世界が理想だと思うのです。

 

第11課 明治維新と近代国家への道

日本における最大の政変といえば、やはり明治維新でしょう。当時の日本には、坂本竜馬、高杉晋作など、それこそ命がけで、革命に青春を捧げた若者たちがいました。茶髪にピアス、路傍にしゃがんでしゃべくっている最近の若者を見ていると、まさに隔世の感ですが、それはともかく、明治維新とはいったいなんだったのでしょうか。

 それは、1853年6月3日午後5時、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に現れ、日本に強く開国を迫った日に始まります。阿片戦争で清朝が敗れたという報せは日本にも届いており、米艦隊と闘ったからといって、とても勝ち目がないことは江戸幕府も知っていました。江戸幕府は対応をめぐって上を下への大慌てです。庶民はどうかといいますと、黒船を見ようと浦賀の海岸に押し寄せ、見物人を目当ての夜店まで出たそうです。この黒船来航をきっかけに、幕府の鎖国政策は崩れ去り、ついに日本にも植民地化の危機が忍び寄ってきたのです。

 黒船来航以後、日本では国内は開国か攘夷か、佐幕か討幕かをめぐって分裂し、血なまぐさい幕末動乱期に突入しました。幸いなことに、イギリスは阿片戦争後の中国民衆の反英闘争、太平天国の乱、インドのセポイの乱の鎮圧に武力を割かざるをえず、列強間の対立にも助けられ、日本は辛うじて植民地化の危機を免れたのですが、このとき、もし日本で明治維新が成功していなければ、東アジア全域が欧米列強の植民地にされていた可能性も否定できません。

 明治政府が成立(1868年)し、日本は富国強兵・殖産興業政策を柱として近代国家への道を歩み始めました。そのときの意気込みは、「五か条の誓文」(明治天皇)からもうかがえます。

五箇条の誓文(現代語訳)
一 衆知を集め、天下の政治はその意見に従え。
一 上下の人々が心をひとつにして、いよいよ国家を富ませよ。
一 公家・武家は一体となり、庶民までおのおの志を遂げられるようにし、目標に向かう  人々の気持ちがあきないようにせよ。
一 これまでの攘夷運動のような古い習性は捨て去り、諸国と親しむという世界の正しい  道理に基づけ。
一 諸外国に知識を求め、わが国を発展させよ。
わが国はかつてない変革を行おうとしており、朕〔天皇〕は率先して、天地神明に誓って国の方針を定めて万民の保全を図ろうとする。庶民はこの趣旨に基づき、心をひとつにして努力せよ。

 明治新政府は版籍奉還、徴兵制、学校教育制度、地租改正と矢継ぎ早の政治改革を打ち出しました。これに対して反発が起こり、農民一揆や士族の反乱があいつぎますが、1887年の西南戦争の平定で、明治政府の基盤は固まり、明治維新は一応完成されたと言えるでしょう。

 西洋文化の流入は、人々の生活様式に大きな変化をもたらしました。それは「文明開化」と呼ばれましたが、洋服が広まり、ちょんまげにかわって「ざんぎり頭」が流行し、煉瓦造りの洋室建築が出現し、牛鍋などの肉食が取り入れられました。この牛鍋が後の「すき焼き」です。そして、ランプ、人力車、鉄道馬車が現れ、文明開化のシンボルとなったのです。中でも太陽暦と七曜制の採用は、人々の暮らしを大きく変えることになりました。当時の俗謡は、当時のことを「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。」と歌っています。

 

第12課 日清・日露戦争と日本帝国主義

1894年、朝鮮での甲午農民戦争と呼ばれる大規模な反乱が発生したのを契機にして、日清両国が朝鮮に出兵し、日清戦争が起こった。次ぎに義和団の乱が起こると、日本を主力とする8カ国連合軍は、1900年、北京に進駐した。続いて、満州を占領していたロシアが韓国に勢力を伸ばすや否や、日本は日英同盟を結んでロシアに対抗し、 1904年にはついに日露戦争が勃発した。明治末期には日清・日露という大きな戦争が起こったが、その勝利を通じて日本は歴史上初めての海外植民地を手に入れ、帝国主義国に転化していったと言える。

 みなさんは、福沢諭吉という人を知っているだろうか。現在の慶応大学の創立者なのだが、一万円札に載っている人物と言った方がわかるかも知れない。この諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた学者で、明治を代表する思想的指導者であり、近代教育の祖とも言われる人物である。その諭吉でさえ、1985年には「脱亜論」を展開し、アジアを蔑視し、「朝鮮・中国と接する時は、ヨーロッパの国々が接するのと同じやり方で接すればいいのである。」と侵略を肯定するようになった。そして日清戦争に当たっては、「これは文明と野蛮の戦争であり、文明国日本にとって、清との戦いは正義の戦いである」と新聞に書くに至ったのである。日清戦争に対する日本国内の反応は「好戦気分」の洪水であった。

 日露戦争は薄氷の勝利であったとはいえ、アジアの小国日本が世界の大国ロシアを破ったというニュースは、日本人は言うまでもなく、19世紀以来、ヨーロッパの列強の侵略に悩まされてきたアジア諸国の人々を驚喜させた。独立後最初のインド大統領となったネルーも「日露戦争での日本の勝利は、アジアの民衆に民族独立への大きな希望を与えた」と書いている。ところが、日韓併合など、日本がその後にとった行動は、ことごとくアジア民衆の希望を裏切るものだった。日本はヨーロッパ列強諸国と手を結び、アジア支配に加わったのである。まさに「脱亜入欧」である。これを知ったネルーは、「しかし、気がつくと、それは希望を与えたのではなく、飢えた狼をもう一匹増やしただけであった。」と書き添えている。

 日本政府は日清戦争で得た賠償金をもとに金本位制を確立し、1901年に鉄鋼生産のために官営の八幡製鉄所が操業を開始し、兵器、造船など諸産業発展の基礎を作り上げた。こうした産業革命の展開の中で、三井家、岩崎家(三菱)などの政商が巨大な産業資本家となり、二つの戦争を通して財閥を形成するようになった。

 1912年明治天皇が没し、大正の世となった。1914年に第1次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を口実にして参戦し、翌年には中華民国の袁世凱政権に中国の主権を侵す「二十一カ条要求」をつきつけ、その大部分を強引に認めさせた。この第1次世界大戦はかつてない好景気を日本にもたらし、戦争成金が続出した。日本の輸出は1914年から1919年までの5年間で4倍以上に増加したばかりか、債務国から債権国へ転じ、工業生産額は農業生産額を上回り、工業国の仲間入りを果たしたのである。

 

第13課 満州事変から太平洋戦争へ

第一次世界大戦終結後の1920年には戦後恐慌が勃発し、1923年には関東大震災が起きました。この震災によって江戸時代以来の町並みのほとんどが消失し、東京は焼け野原になりました。昭和天皇が在位したのは、そんな日本が震災の痛手からまだ立ち直れない1926年のことです。その翌年には金融恐慌が起こり、そこに追い打ちをかけるかのように、1929年10月のニューヨーク証券取引所での株の大暴落に始まる世界大恐慌が襲いました。

 列強諸国は自国の経済的利益を守るために、自国の工業製品以外を排除したブロック経済圏の形成に向かいました。日本軍部内でも、「経済国難」の解決策として中国大陸への進出論が強まりました。街は失業者で溢れ、農村は凶作に喘ぎ、娘を身売りするような深刻な事態に陥っているにもかかわらず、政党政治は十分に機能せず、事態は一向に改善されません。政党政治への失望と不信が蔓延しました。そんな時に民衆から出てくる代替案は、いつでも強力な指導者による善政の待望論であり、その点、左も右も変わりません。こうした国民の政党政治への不満を背景に、天皇を中心とするファッショ的な軍部政権を志す右翼の動きも活発化しました。その思想は、白人帝国主義に対するアジア主義、天皇の下での平等主義で、ナチス党ヒトラーの国家社会主義と共通するものがありました。そしてこの思想は貧しい農村出身者が多い兵士たちの心をとらえ始めました。

 1931年に満州の関東軍は柳条湖事件を起こして軍事行動を開始し、翌32年、日本は満州を中国から分離して「満州国」を作りました。1932年海軍青年将校の指導したクーデター事件(五・一五事件)が起こり、犬養毅首相が射殺され、政党内閣制に終止符が打たれました。1936年には、青年将校や兵の約千五百名が、「昭和維新」を呼号して首相官邸、警視庁などを占拠し、重臣たちを襲撃するという二・二六事件が起きました。

 これらのクーデターは失敗しますが、軍内部では反乱に対する同情が圧倒的に強く、これを機に政治は一気に軍部主導へと向かいました。そして、1937年7月7日、廬溝橋事件が起こったのです。この事件を戦争拡大に利用したのは、東条英機関東軍参謀総長をはじめとする軍中央の強硬派です。日本は大軍を現地に送り、華北から華中へと中国支配を進めようとしました。日中全面戦争が始まりました。政府は、1937年、「国民精神総動員運動」の実施を決定し、翌年には国の全ての産業や組織を戦争体制に協力させるために「国家総動員法」を制定しました。この戦争体制を強めるに際して、最も邪魔な存在は、共産主義者や自由主義者でしたが、これらの人々は「治安維持法」によって徹底的に弾圧されました。

 1939年に第2次世界大戦が勃発すると、日本政府は日独伊三国同盟を結ぶ一方で、石油など軍需物資確保などを目的に東南アジアへの南進政策を進めました。この日本の行動に対して、アメリカ、イギリス、オランダは、日本への石油や屑鉄の輸出禁止など、俗にABCDラインと呼ばれる対日経済封鎖を行いました。1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まりました。そして、この無謀な戦争は、1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が投下され、日本が無条件降伏し、ポツダム宣言を受諾するまで続けられたのです。

 

第14課 敗戦から民主国家への道

日本の国民は8月15日の天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言受託を告げられた。国民は涙を流しながら天皇の肉声を聞いたが、それまでの好戦的な姿勢からすると信じられないほど従順に敗戦を受け入れた。国民はもう戦争に疲れきっていたのである。

 思えば、この戦争ほど無謀で愚かな戦争はなかった。日本の指導者たちは、この戦争は東アジアから植民地支配しているヨーロッパ人を追い出し、アジア人が共に繁栄する「大東亜共栄圏」を建設するためだとして、日本人だけでなく、朝鮮人も中国人も、日本統治下の全アジアの人々をこの戦争に狩り出した。しかし、いかに美辞麗句で粉飾したにせよ、それはアジアをめぐる帝国主義国間の植民地分割戦争以外の何ものでもなかった。

 日本の占領は連合国によって行われるはずであった。しかし、占領政策を実際に決定・遂行したのは、マッカーサーを最高司令官とするGHQであり、それはとりもなおさずアメリカそのものであった。GHQは神格化された天皇制を残したままでは、日本の民主化はできないことを熟知しており、1946年1月、天皇に人間宣言を行わせた。ここに「現人神」天皇は、ただの人間になったのである。続いてGHQ草案をもとにして日本政府が作成した日本国憲法が、1946年11月3日に公布、翌年5月3日から施行された。それは、主権在民、平和主義、基本的人権の尊重を三大基本原理とするもので、天皇は日本国民統合の象徴とされた。

 この憲法に基づいて、婦人参政権の付与、労働組合の育成、教育の民主化、経済の民主化など、一連の民主改革が行われた。治安維持法など圧政的諸法が撤廃され、日本軍国主義の基盤を成した三井、三菱、住友、安田の4大財閥は解体され、地主制も農地改革によって、ほぼ消滅した。

 このように国内法を整備した上で、GHQは1946年4月、戦後第1回目の総選挙を実施した。この選挙では、参政権が認められた女性候補も79人が立候補し、39人が当選した。選挙の結果は自由党が第一党となり、自由党の吉田茂が首相に選ばれた。この吉田茂こそ、日本の戦後の保守派を代表する政治家として、5回にわたり内閣を組織し、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約など、戦後の日本の枠組みを作った人物である。

 しかし、GHQによる日本の民主化政策と非軍事化は1948年を境としてしだいに変化を始めた。それはヨーロッパでアメリカとソ連の対立が深まり、東西冷戦が始まったからである。中国においても、中国内戦は国民党より共産党・人民解放軍が圧倒的に優勢に進んでいた。GHQは日本を極東での反共の防波堤にする必要に迫られた。GHQは先ず日本経済安定のための「経済安定9原則」を発表し、新経済政策「ドッジ・ライン」(1949年)を実施した。この財政金融引締めと対外為替レートの固定化(1ドル=360円)政策は功を奏し、インフレは収束し、企業経営の合理化、資本の蓄積が促された。一方で、マッカーサーは「ソ連の手先、共産党の撲滅」を宣言し、共産党員の公職追放を強行した。これはレッドパージと呼ばれるが、この弾圧によって、教員、公務員、民間企業などで3万人に及ぶ人々が職を追われた。

 1949年、「中華人民共和国」が誕生し、アジアに初の社会主義国が生まれた。朝鮮半島では38度線を挟んで、「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮と「大韓民国」(韓国)という分裂国家が誕生した。1950年6月25日、この国境線が突然火を噴いた。朝鮮戦争の勃発である。

 

第15課 奇跡の戦後復興からバブル崩壊へ

戦後の日本は焼け野原から出発したと言っても過言ではない。大戦直後の日本は、その国富の四分の一を失い、生産はほぼ麻痺状態だった。仕事のない復員軍人が町に溢れ、生活物資は欠乏し、物価はうなぎ登りに上昇していた。米軍相手の娼婦が街角に立ち、米を食べられる人は国民のごく少数で、野草を摘んで芋粥に入れて食べるような生活が、普通の人々の暮らしだったのである。

 そんな日本が復興のきっかけを掴んだのは、朝鮮戦争だろう。米軍への軍需が増大し、経済は活性化し、電力・鉄鋼・造船などの設備投資が一気に増大した。この朝鮮特需を通して日本経済は1955年には戦前の水準にまで回復したのである。この特需を抜きにして日本経済の戦後復興は語れない。以後、日本は重化学工業を中心にして高度成長を遂げるわけだが、それを加速したのは池田内閣の「国民所得倍増計画」であり、企業は本格的に重化学工業への設備投資を拡大した。特に、60年以降の家電産業と自動車産業の発展には目覚ましいものがあり、それらの海外輸出を通じて、年率10%台の経済成長を続け、68年にはアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となったのである。1960年から10年間で、日本の国民総生産(GNP)は実に2.6倍に伸びている。

 この高度成長の外的条件とすれば、日米安保条約というアメリカの核の傘の下で軍事費の支出が抑えられ、その資金を財政投融資として産業基盤整備に振り向けることが可能であったこと、固定相場制(一ドル=360円)が輸出主導型経済成長を可能にしていたこと、安価で安定的な資源や石油の輸入が可能だったことなどが挙げられるだろう。内因とすれば、政府主導の積極的な民間企業育成政策や、道路、港湾、空港、通信、工業立地としての干拓事業などの社会資本整備への財政の重点的投資が挙げられる。また、日本型経営と呼ばれているが、日本企業が労使一体で企業の発展を目指したことも重要な要因であったに違いない。

 1965年の日韓条約締結以降は、日本企業のアジア進出が目立った時期だった。日本政府がODAで受け入れ国の産業基盤を整え、続いて民間企業が進出して現地生産し、その低コストの製品を海外輸出するというパターンが官民一体で進められた。このODAや日本企業の進出が、アジア諸国の工業発展に寄与した面を無視するべきではないが、受け入れ国の人たちから「エコノミック・アニマル」と批判されるほど、露骨なひもつき援助であったのも事実で、東南アジア諸国では日本商品ボイコット運動が起こったぐらいである。

 しかし、この日本の高度成長も、1973年から74年にかけての石油危機によって終焉を迎えることになる。石油危機は、資源小国日本にとっては国家の存亡がかかった大問題だった。日本は国と企業が一丸となって、省エネルギー型産業構造への転換を進めた。その結果、日本の製造業は世界に先駆けてロボット、NC(数値制御)工作機械などの導入に踏み切り、徹底した省エネルギー・省力化によって、この危機を乗り切ることに成功した。そして国際競争力を高めた日本製品は世界市場を席巻し、80年代の安定成長に入った。日本人は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という優越感に酔いしれた。しかし、「驕る平家は久からず」とはよく言ったもので、日本はバブル景気に浮かれ、1990年のバブル崩壊後は「失われた10年」と呼ばれる深刻な不況に突入することになる。

 

第16課 かつて日本は公害列島と言われた

15年ぶりに上海を訪れた私は、その変わりように目を見張った。高層ビルの林、高架の高速道路、そして車の洪水。しかし、変わらぬものもあった。相変わらず信号にお構いなしに道を渡る人々の群れだ。それにしても目が刺すようにチクチク痛い。喉も痛む。晴れにもかかわらず遠くのビルが霞んで見える。これは大気汚染のせいだろうか。

 この目や喉の痛みには記憶がある。70年代はじめのころの東京がそうだった。あの頃は、光化学スモッグ警報が出る度に、校庭の子供たちが教室に駆け込んだものである。上海のような事態は、途上国の公害問題として地球環境問題の一つにも取り上げられているが、日本公害列島と言われたころの日本もそうだった。大気汚染、水質汚濁、ゴミ問題、地盤沈下、騒音…まったく今の上海と変わりがない。残念でならないのは、どうして中国が日本の轍を踏むようなことをするのかということだった。

 日本には苦い経験がある。高度経済成長は各地に重化学工業地帯を誕生させたが、工場からの排水や煤煙は、周辺地域の空気や水を重金属や化学物質で汚染した。その代表例が水俣病である。熊本県水俣のチッソ水俣工場の工場排水に含まれた有機水銀が有明海の水俣湾を汚染し、その魚を食べた水俣の漁民たちの体を蝕んだのである。愛知県の四日市では、工業地帯から出る煤煙による空気汚染で「四日市喘息」と呼ばれる呼吸器障害が起こり、多くの子供達が苦しんだ。新潟県の安中市では、昭和電工安中工場の排水よる新潟水俣病が発生した。富山県でも神通川の神岡鉱業所のカドミニューム汚染によるイタイイタイ病が発生した。これら四つの地域の公害患者や住民たちが起こした行政訴訟は4大公害裁判と呼ばれるが、それ以外にも全国各地で患者たちの裁判闘争が展開された。そして、これらの反公害闘争こそが、1967年に「公害対策基本法」を成立させ、1971年に環境庁を設置させる原動力となったのである。しかし、訴訟は、数年に及ぶものとなり、原告側が勝訴したときには、すでに多くの患者たちが亡くなっていたのである。企業は責任を認めて謝罪し、賠償金の支払いにも応じた。しかし、いくら賠償金をもらっても、失われた健康と命が戻ってくるはずがない。原告の母親が死んだ子供の遺影を抱いて、「命を返せ」と企業に詰め寄っている姿が、今も目に焼きついている。

 こうして多くの公害患者の尊い犠牲の上に確立されたのが、以下のような公害防止のための四原則だった。

? 汚染者負担:環境を汚染したものが責任をとり、汚染の除去に必要な費用の全てを負担する。
? 無過失責任制:企業に故意や過失がなくても、損害に対しては賠償責任を負う。
? 総量規制:従来の濃度規制では、生産規模が拡大したときは排出量は増える。そのため有害物質は総量を規制する。
? 環境アセスメント(環境影響評価):開発による環境への影響を調査・予測・評価し、公表することを義務づける。

 私は今、自問する。かけがえのない自然環境を壊してまで、私たちが手に入れたがる「豊かさ」とは、いったいなんだろうか、と。今、私が住む東京の空にも星が見え、東京湾にも川にも魚が戻りつつあるが、私はタクシーに乗って浦東空港に向かいながら、そんな思いにふけっていた。それにしてもなんという渋滞だろう。私は思わずつぶやいた。「これは道路じゃない。細長い駐車場じゃないか。」と。

 

 

第17課 ごみ処理費と国防費が同額とは

日本全国でごみ処理に毎年3兆円がかかっていますが、これは日本の防衛予算とほぼ同額です。ごみとの闘いに国防費と同額が使われているとはちょっと信じがたい話ですが、本当の話です。しかも、ごみ処理場建設をめぐる紛争や不法投棄の発覚などのトラブルが日本各地で起こっていますが、いったいいつからこんなにごみ問題が深刻になったのでしょうか。

 江戸時代にさかのぼれば、住宅、生活用品の材料は、稲(藁)、木材や竹、紙が主でしたから、それらをリサイクルさせながら、一種の理想的な資源循環型社会を築いていました。明治以後でも、衣類は使って古くなると赤ちゃんのおしめとなり、廃材は風呂の燃料、人や家畜の排泄物や灰は農地に肥料として撒かれたので、ごみはないに等しかったのです。

 それが変わり始めたのは、「もはや戦後ではない」と言われた1956年あたりからです。洗濯機、冷蔵庫、掃除機などの電化製品が家庭に普及し始め、その10年後の1970年には、普及率は冷蔵庫89.1%、洗濯機91.4%に達しました。ここに更にやっかいな化学製品が登場してきました。プラスチックです。このプラスチックの日本国内消費量が、1960年54.5万トンと国民1人当り5.83?(キログラム)でしたが、70年に39.33?、1990年には92.43?と、10年ごとに倍増以上の勢いで増え続けたのです。

 現在のごみ問題は70年代に入って顕在化するのですが、それは1960年前後からすさまじい勢いで各家庭に普及した耐久消費財が、10年前後を経て、同じくすさまじい勢いでごみとして排出されたからです。それとともに、プラスチックやラップなどがごみとして出されるようになりましたが、それらの焼却処理に伴って発生する有毒のダイオキシンが土壌や水を汚染する事態が広がりました。厚生省も1997年、全国で52カ所のごみ焼却施設で、基準を大幅に超えるダイオキシンが発生しており、緊急対策を講じる必要があるとの報告書を発表しました。そんなことあって、ごみは増える一方なのに、地方自治体が家庭ごみなど一般廃棄物のごみ処理場を建設しようにも、住民の同意が得られず、建設できないケースが増えてきたのです。

 90年代に入ると、産業廃棄物の問題が大きく登場しました。日本は海外から石油など年間約7億トンの原料を輸入し、それを製造加工して、自動車、家電などの製品として約7000万トンを輸出しています。その差が生産過程で排出される気体や液体、固形廃棄物なのですが、この固形部分が広義の産業廃棄物です。その年間排出量は1994年度で4億0545万トンですが、日本の沿岸部にはほとんど埋立ての余地はなく、ごみ処理代も急騰しているため、こうした産業廃棄物の平野部の砂利穴や、山間部の谷間への埋立てが急増し、不法投棄もめだって増えているのです。

 一体どうしてこんな事態になったのでしょうか。今日でこそ、「持続可能な開発」「資源循環型(リサイクル)社会」が環境保全の基本的な考え方として認められていますが、一昔前までは、あたかも「大量消費こそ豊かさであり、幸せである。」と言わんばかりの商品宣伝が行われていました。高度成長は大量生産・大量消費の経済を招き、「節約は美徳」としてきた日本社会を「使い捨て」社会へと変えてしまいました。

 「豊かな消費生活=幸せ」とする現代の物神崇拝が生んだごみ問題、そのごみ処理に3兆円も使うぐらいなら、どうしてごみの出ない経済や社会の仕組みを作ろうとしないのでしょうか。地球環境問題もまた、人類の生産活動や消費活動が排出したごみが生み落としたものに他ならないのですから。

 

第18課 日本型経営はどう変わるのか

中国には「一人の日本人は虫、三人の日本人ば龍」という言葉があると、中国に留学していた際に、お年寄りから聞いたことがあります。確かに日本人には、一人一人はおとなしくて平凡なのに、集団を組むと力を発揮したり、普段からは想像もつかないような大胆なことをするといった傾向があります。悪い例を挙げるとすれば、深夜、クラクションを鳴らして走り回る暴走族や、徒党を組むやくざ、学校における集団によるいじめ行為だったりするのですが、いい方向に発揮されたのが、日本の高度成長を支えたと言われる生産現場のQCサークル運動や、日本型経営だったのではなかったでしょうか。

 日本には終身雇用制・年功序列型賃金・企業内労働組合など、日本型経営を支えた長期雇用慣行が存在していました。これによって企業は大きな擬似家族共同体を作っていたわけです。これを日本型経営と呼んでいるのですが、日本人が「うちの会社」と呼ぶ、この会社と自分の一体感があればこそ、家族を犠牲にしても身を粉にして会社のために働く「働き蜂」日本人を作り、世界第二位の経済大国を作り出したと言えるでしょう。

 しかし、この日本型経営の中には、外国の人が外から観察しただけではわからない特徴があります。それは「根回し」とか「稟議制」とか言われることもありますが、日本の経営には欧米とは企業の意思決定のシステムに大きな違いがあるのです。日本の多くの企業では、経営がトップ・ダウンで指示・命令を下すというようなことは極めて稀で、ほとんどは担当部門が提案し、関連部門が話し合いつつ原案を調整・修正(「根回し」)し、関連する課が提案を回し読みして同意をもらい(「稟議制」)、最終的に経営トップの承認を得るという慣習が定着していました。ですから、公式の経営会議に先だって各部門の事前のコンセンサスがあるわけで、会議は意見を戦わせる場ではなく、お互いの意思確認の場なのです。社長とは意見の調停者であり、最終的な決裁者というわけです。

 このできるだけ多数決は避けて、調整しながら共同体全員の合意形成を進めるというのは、伝統的な「和」の文化そのものであり、日本の企業ばかりでなく、政策を決定する国会もそうだったのです。確かに、外からは意思決定のプロセスがわかりづらく、意思決定に時間がかかりすぎるとか、責任の所在が不明確になりがちだとかいった問題点があるのですが、一旦決定されれば、一気に組織全体が動き出せるという長所がありました。また、一般社員と社長の給料の差が数倍程度で、国民の9割が中流意識を持つような平等社会を築いてこられたのも、このコンセンサス重視の「和」の文化があったからでしょう。

 昨今、経営者のリーダーシップが強調され、能力主義とトップ・ダウン式のアメリカ式の経営がもてはやされ、終身雇用制を柱とする日本型経営を否定する動きがあるのですが、実は会社再建のために契約制や成果主義を導入して成功した例はあまり多くないのです。それは個人主義の伝統に立つアメリカ式経営は、日本では社員の会社へ忠誠心を失わせ、労使関係を損ない、勤労意欲を削ぐ結果になったからです。事実、日産自動車の経営危機を克服して再建した最高執行責任者カルロス・ローン(元ルノー副社長)は、終身雇用制の堅持を宣言し、「社員の企業再建への労使一体の熱意こそ、日産を蘇らせた。」と評価しています。

 日本型経営はどう変わるか、どう変わるべきかというテーマは、今後もいろいろ議論されるでしょうが、経営というのはすぐれてその国の文化に根ざしているものであって、その国の文化を無視しては成り立たないと思えるのです。

 

第19課 女性の晩婚化と少子化現象

高学歴、高収入、高身長を表す「3高」という言葉がはやった時代もありましたが、今や学歴や容姿よりも、家事や育児に協力してくれることが、女性が重視する結婚相手の条件となっています。そして調査の度に、家事育児の共同負担、女性が仕事を続けることへの理解が上昇しているのです。

 この傾向は、「結婚に不利益を感じる理由」に関する調査(→189P)でも同様の結果が出ています。最も男女の違いが目立つ項目についてみると、男性では「自由に使えるお金が減ってしまう」が第一位を占めるのに対して、女性では「家事、育児負担の増加」(1位)、「仕事がしにくくなる」(3位)が断然男性より高いのが特徴です。

 現在の日本における少子化の原因のひとつに、女性の晩婚化・未婚化があげられます。しかし、女性たちが結婚したくないのかといえば、そうではなく、結婚相手に対する条件が折り合わず、適当な相手に巡り会えないというのが大半ではないかと思われます。「結婚したくないことはないが、自分のライフ・スタイルを犠牲にしてまで結婚したいとは思わない。適当な人に会えたら結婚するし、会えなかったら独身でもいい。」という女性が増えているのです。彼女たちは結婚相手に3C(Comfortable=十分な給料、Communicative=価値観とライフ・スタイルが共通、Cooperative=家事への協力)を求めます。一方、男性は女性に対して、4K(かわいい、家庭的、賢い、軽い=体重)という家庭的な女性のイメージを求めますから、うまくいくわけがないのです。実際に家事労働の時間は専業主婦が7時間23分、有職女性が3時間29分なのに対して、有職男性は31分に過ぎません。男性の66%、女性の77.7%が「男性はもっと家事に関わるべき」(東京女性白書'97 )と考えているにもかかわらず、このような結果になるのは、会社での長時間労働や業績競争でへとへとになっていて、家に帰って家事どころではないというのが率直なところではないでしょうか。

 具体的な数字を見てみると、女性の平均初婚年令はこの10年で25.3才から26.1才、大卒以上の女性は27.4才に上昇し、全体的に晩婚化が進んでいます。晩婚化につれて第一子の出産平均年齢が27歳を越えています。昔は30歳を超えると高齢出産と言われたものですが、今は42歳ぐらいにならないと言われません。しかも教育費が高いですから、子供をつくっても1人が限度、それ以上つくらないし、つくれないというのが現実でしょう。また、日本では、婚外子は1%に過ぎませんが、スウェーデン、デンマークは5割、イギリス、フランスは3割強と、子どもをつくる環境の違いも少子化の原因のひとつでしょう。日本政府は、1985年に「男女雇用機会均等法」、1995年に「育児・介護休業法」、1999年に「男女共同参画社会形成の促進に関する基本法」を成立させ、対策に取り組んでいますが、今のところめぼしい成果は現れていません。

 しかし、少子化は本当に悪いことなのでしょうか。政府は少子化がこれ以上進むと、介護労働力の確保の問題や、年金・福祉・医療の給付の増加による福祉財源の問題、生産人口の減少によって日本社会の活力が失われ、ますます不況になると心配しているのですが、人口が減ることで、ごみ、住宅問題、通勤ラッシュなどが解消され、かえって住みやすい日本になる可能性だってないわけではありません。

 

第20課 長寿が喜べない高齢社会

 

日本人の2002年度の平均寿命は81歳(男:77.8歳、女:85.0歳)で、世界一の長寿国となったとか。当然喜んでいいニュースのはずなのに、新聞やテレビが取り上げるのは、「高齢社会対策をどうするか」という暗い議論ばかりで、どうも明るい話題がない。

 以前、月刊誌「オール川柳」(1997年4月号)にこんな句が載せられたことがある。
    老人は 死んで下さい 国のため
 この句は大変な反響を呼んだが、この句に対して老人施設に住むHさんは、こんな「お返しの歌」を敬老会で披露した。
    苦労して 豊かな国に 誰がした 
         感謝せずして 死んでくれとは
 老人は社会にとってやっかいな存在なのだろうか。実は、もっと深刻なデーターがある。以下は「平成15年における自殺の概要」だが、60歳以上の自殺者が11.529 人で全体の33.5 % を占めている。40代、50代の働き盛りの男性の自殺が多いのも日本の特徴だが、これは90年代に入って顕在化したリストラや過度の業績競争によるストレス、鬱病の増加など、社会のしわ寄せが自殺となって現れている形だ。自殺の原因が、「健康問題」が37.5 %、経済・生活問題35.2 %、 家庭問題9.3%と続くことからも、福祉の貧困が浮き上がってくる。先進工業国の高齢化は、長寿化の進行と出生率の低下に特徴があるが、日本では少子高齢化の速度が速すぎるために、福祉、医療などの分野で社会的対応がついていけないというのが現状のようだ。増大する医療費や年金などの社会保障費を誰がどのように負担するのか、老いた両親の介護をどうすればいいのか、問題は山積している。

 「恥の文化」が国民性の日本では、介護を他人に任せるのは「身内の恥」とするような風潮が強く、それが高齢者介護などの社会化を遅らせる大きな要因だったと言える。しかし、1990年代の半ばを過ぎたころから、介護に疲れて嫁が姑を殺した事件とか、老人虐待事件が頻発し始めた。かつての日本では、年老いた親の面倒をみることを「親孝行」と言い、「親孝行したいときには、親は亡し」と言ったものだが、これは平均寿命が短かったからよかったのであり、今では、「親の長生き、子のため息」という言葉が生まれているぐらいである。もはや「身内の恥」どころではなくなったのである。こうして日本でも遅ればせながら、介護保険制度(2000年4月)が発足したのだが、日本の公的介護システムは、北欧諸国に比べてまだまだ遅れていると言わざるを得ない。だが、目下のところは、この制度に頼るよりほか方法がないのが現状だ。

 このようにとかく暗いイメージで語られがちな高齢社会であるが、少し視点を変えれば、高齢社会の到来こそよりよい社会をつくるチャンスだと言うこともできる。なぜなら、高齢社会とは80年サイクルで人生を考えることができる社会であり、もし「効率と競争」ばかりが優先される社会の歪みが是正され、高齢者や障害者にも社会参加の場があるようなバリアフリー社会を築くことさえできれば、それは誰にとっても住みやすい社会を作り出すことにつながると考えるからである。若いうちは、老いは他人事としてしか思えないものだが、老いは誰にも必ず訪れるものである。これを機会に、自分老いを迎えたとき、どのように生きたいのか考えてみようではないか。そこに答があるはずなのだ。

 

第21課 学校週五日制の波紋

2002年度から、新学習指導要綱に基づいて、公立学校で学校週5日制が開始された。それはこれまでの学校教育が受験に向けた「知識偏重の詰め込み教育」に歪み、不登校や校内暴力、いじめなど「学校の荒れ」をもたらしたとの反省に立って、子供たちが「ゆとり」をもって学習できるようにする、また、「学校、家庭、地域社会が相互に連携しつつ、子どもたちに社会体験や自然体験など様々な活動を経験させ、自ら学び自ら考える力や豊かな人間性、たくましく生きるための健康や体力などの『生きる力』をはぐくむ」という趣旨に立って行われた教育改革であった。

 しかし、「ゆとり教育」のために学習内容が削減されたことで、マスコミなどは一斉に「学力低下への不安」を騒ぎ始めた。しかも、私立で週5日制を実施する学校が、わずか55%に過ぎないという状況が明らかになるとともに、公私間で今まで以上に学力格差が拡大するのではないかという不安も重なって、親や教師たちからの不満が噴出した。改革を推進すべき文部科学省は、こうした親や教師たちの声に抗し切れなくなり、「勉強をしたい子どもがいれば、補習をしても問題はない。」と姿勢を転換したのだが、そのために公立学校でも土曜補習などの取組みが一気に広がり、「ゆとり教育」の方針にも矛盾が生じ始めたのである。これは文部科学省自らが受験競争の現状を追認したに等しく、教育改革に対する基本的な姿勢さえ疑われかねない事態となったのである。

 学校週五日制の完全実施をめぐる議論の中で、繰り返し語られたのは「土日は子どもを家庭に返そう。」ということだった。子どもたちは、休日が増えたことを一様に歓迎しているのだが、親たちは学力低下が叫ばれる中で、我が子をのんびりさせてしまっていいのか、複雑な思いの中にいるがドミノ倒しのように各地域に広がるとすれば、学校五日制がなし崩しになる恐れがある。

 この問題は、もう一度、教育改革の原点に立ち返って考える必要がある。もし「学力」を今までのような「知識の量」ととらえるのであれば、教える時間も中味が減れば、「知識の量」は減るのだから、「学力」は低下するのは当たり前である。しかし、「知識の量」のみで生徒を選別する受験制度や、個性を無視した画一的な授業の押しつけなど、「学歴や知育の偏重が子どもの荒廃を生み出している。」として、基礎基本を重視したゆとりある教育、個性に応じて子どもの力を伸ばすための選択科目の拡大などの改革に踏み切ったはずである。

 戦後の日本は、欧米先進国に追いつけ追い越せとばかりに、先進国の文化や学問、知識を吸収してきた。確かに、その際に必要な学力は知識の量であったが、今の日本に求められている学力は、国際化する世界にあって新しい日本を創造していく力、新たな技術・文化を創造していく力である。言い換えれば、「自ら考え、課題を見つけ、主体的に課題を解決していく力」こそ「新しい学力」なのであり、「生きる力」に他ならない。

  「ナンバーワンになるよりも、オンリーワンに」と訴えるSMAPの「世界に一つだけの花」が、中高生や若者の心にしみ込んでいったのは、決して偶然ではない。受験や出世競争に勝つことだけが人生ではないと、彼らは気づき始めているのである。趣味であれ仕事であれ、或いはスポーツであれ、人は自らしたいと思って選んだことであれば、誰に言われなくても自発的に学ぼうとする。「生きる」とは、正に一人一人が「世界に一つだけの花」(=個性)を咲かせることであり、再び子供たちを学歴や知育の偏重の教育に追いやるようなことがあってはならない。思えば、強制されていやいやすることを表す「勉強」という語を、学習の意味に使う日本人の教育観そのものに、そもそも問題があったのではないだろうか。

 

第22課 変わりつつある日本人の労働観

「働き蜂」とか「会社人間」とか言われ、「カロウシ(過労死)」という世界語まで作り出した日本のサラリーマンであるが、どうやらここにきて大きな変貌を遂げつつあるようだ。それを表すのが下のグラフである。

 50代では「仕事重視、どちらかと言えば仕事重視」が65%を越えるのに対し、世代が下がるにしたがってその比率は低下し、20代以下では「仕事重視、どちらかと言えば仕事重視」は36%に落ち込み、「生活重視、どちらかと言えば生活重視」が63%と多数派になっている。

 個人の働き方は、これまで終身雇用制や年功賃金などの雇用慣行の影響を受けてきた。その典型が、終身雇用制の下で身も心も会社に捧げて働いてきた「会社人間」の夫と、それを支える専業主婦の妻であった。だが、明らかにこのような働き方は変化しつつある。終身雇用制が崩れ、40歳過ぎればリストラの対象とも言われる現代の会社にあって、若者の中では一つの会社で長期間勤務して昇進を目指してがんばるという働き方は少数派であり、出世や昇進よりも自分の趣味や家庭生活を大切にし、より拘束性の弱い働き方を志向する者が増えているのである。

 その一つに、大学を卒業しても定職に就かず、短期間のアルバイトなどをして過ごす若者、いわゆる「フリーター」問題がある。先日もNHKが「フリーター417万人の衝撃」という特集(2004.02.07)を組んで報道したが、その数字は驚くことばかりだった。「フリーターの数はここ10年で2倍になり、今や労働人口の5人に1人がフリーターである。フリーターの生涯賃金は正社員の4分の1、平均納税額は正社員の5分の1であり、フリーターがこのペースで増えれば、2010年には経済成長率を1.9%押し下げるという試算もある。」というのだ。

 かつてフリーターといえば、以前は会社にも時間にも拘束されず、気ままに過ごしている若者のイメージがあった。しかし、一口にフリーターと言っても、理由別に分類すると「モラトリアム型」(やりたい職業がみつかるまでの猶予期間として選択した者)が46.9%、「やむを得ず型」(正規採用になれなかったり、倒産やリストラで失職したりして、しかたなくフリーターをしている者)が39.4%、「夢追求型」(何か明確な目標を持った上で、生活の糧を得んがために、自由に時間が使えるフリーター生活を選んでいる者)が13.7%と、実に様々である。(日本労働研究機構「大都市の若者の就業行動と意識」より)。しかし、NHKが更に聞き取り調査を進めてわかったのは、「夢追求型」はさておき、「やむを得ず型」はもとより、「モラトリアム型」のほとんどが、不況のあおりを受けて、「正社員」としての就職の機会が狭められたために、正社員になりたくてもなれず、諦めてフリーターになっているという現実であった。現在のフリーターは、バブル期の気楽なフリーターとは全く性格を異にしているのである。こうなると、もはやフリーター問題を世代論や「若者のライフスタイル」論としてだけでは語れない。日本の若者の実に三分の一が、こうした非自発的なフリーターという境遇に置かれているという現状を考えないわけにはいかないのである。

 

第23課 日本社会と外国人労働者

現在、日本には約200万人の在日外国人が生活している。その内訳を見ると、オールド・カマーズ(old commers)と呼ばれる、戦前から滞在する人々とその家族が約60万人、ニュー・カマーズ(new commers)と言われる外国人が100万人、それに未登録の超過滞在、あるいはオーバー・ステイ(over stay)と呼ばれる人々が約30万人いると言われる。

 オールド・カマーズと呼ばれるのは、日本の植民地支配と第二次大戦期に日本に出稼ぎに来たり、強制連行されて来た在日韓国・朝鮮人(約60万人)や在日中国人(約4万人)のことで、彼らはすでに3世、4世が主流であり、「帰化許可」を申請する韓国・朝鮮国籍者も毎年1万人前後いる。

 ニュー・カマーズというのは、80年代に入って主としてアジアから流入した外国人労働者であり、80年代後半にはバブル景気と相まって、彼らの流入は増加の一途をたどった。このなかで増加が著しいのは、中国人と日系ブラジル人、次いでフィリピン人である。バブルが崩壊し、「失われた10年」と呼ばれる深刻な不況期を迎えたが、それにもかかわらず、90年代を通して在日外国人は50万人も増加している。というのは、日本人が嫌がる「3K労働」の多い中小零細企業で人手不足が深刻になり、外国人労働者のニーズが増大し続けたからである。

 今日では、彼らの労働力抜きには人手不足倒産しかねない中小の製造業も多い。こうして外国人労働者が日本社会に不可欠な存在になるとともに、初期には短期滞在型が圧倒的であった外国人労働者は、家族を呼び寄せたり、日本人との結婚したりと、徐々に定住化の傾向を強めている。それに伴って、かつては専ら「外国人労働者」問題として語られてきた「在日外国人」問題であったが、今日では、医療、社会保障、教育、文化など、より幅の広い、生活に密着した社会問題となったのである。

 その端的な例が、1989年以降急増し続ける国際結婚だろう。例えば1997年の国際結婚は2万8000件、1年間の結婚数全体の 3.6%を占めるまでになっている。その中で一番多いのが日本人男性とフィリピン人女性のカップルであるが、彼女たちが日本の暮らしに溶け込むことは容易なことではない。外国人のための相談センターには、言葉の悩みや生活習慣の違いからくる夫の両親との不和、或いは、「教会での礼拝はおろか、日本人として育てろと、自分の娘に母語であるタガログ語を教えることすら禁止され、悩んでいる。」といった内容の相談が、連日のように寄せられているという。敬虔なカトリック信者である彼女にしてみれば、自分の宗教を尊重してもらえないのは辛いことであろうし、母語を自分の子供に伝えられないのはもっと辛いことに違いない。国際化や異文化交流が叫ばれる裏側では、依然としてこうした事態が続いているのであり、日本社会には在日外国人が自分の民族の言語や文化を保持して生活する権利を否定するような、根強い同化主義が残っているのである。

 日本は少子化と高齢人口の増加が急速に進んでおり、「人口減少社会」の到来が目前に迫っている。そうなると、好むと好まざるにかかわらず、日本社会はより多くの外国人労働力を必要とするようになる。しかし、日本社会にはアジア蔑視の「脱亜入欧」論が染みついた精神風土があり、果たして「多民族・多文化共生社会」への移行がスムーズに行くのか、心配せずにはいられない。なぜなら、昨今、欧米で激化しているような外国人労働者排斥運動が、日本でも起こらないとも限らないからである。

 日本は、かつてアメリカや中南米に多くの移民を送り出した国であり、それらの地域には、今も多くの日系人が住んでいる。今度は回り回って、日本が海外移民を受け入れる番が来たのである。21世紀の日本は労働開国と他民族国家への移行を避けて通ることはできない。日本人の一人一人が、この現実と向き合うべき時ではなかろうか。

 

第24課 食料自給率40%の経済大国日本

日本といえば、工業用の原料 ・燃料のほとんどすべてを輸入に頼り、それをもとにして作った自動車・電化製品・精密機械類・繊維製品などの工業製品を輸出している先進工業国で、 この加工貿易で世界第二位の経済大国になったということは誰でも知っている。

 この資源に乏しい日本で、輸入が途絶えたことが原因となったパニックが、戦後だけでも二回起こっている。一つがトイレットペーパー買いだめ騒動だ。それは第一次石油危機の際に、メジャーと言われる国際石油資本が、日本向けの石油輸出価格を30%引き上げると通告したことから起こった。物不足への不安心理が、主婦たちを買いだめに走らせたのである。

 次ぎに起こったのが、2004年2月の牛丼騒動である。それはBSE問題で、米国産牛肉の輸入禁止措置が採られたことに始まる。1日100万食とも言われる牛丼が店から消える日、牛丼を食べようと多くの人が深夜から行列を作り、店に殺到したのである。牛丼一つでこの騒ぎである。もし日本人の食卓から、まぐろが消えると言ったら、どんな騒ぎになったことか。しかし、これは笑い話では済まない話だ。なぜなら、日本の食料自給率は、試算を始めた1960年度の79%から年々下がる一方であり、2002年度にはカロリー換算で40%にまで落ち込んでいるからだ。

 食料自給率が40%ということは、食料の6割を海外に依存していることを意味するが、穀物自給率は2000年時点で、世界175か国中の128番目、先進国が加盟する経済協力開発機構(OECD)30か国のうちでは29番目と、最低水準なのである。今後、自由貿易協定(FTA)の交渉が進展すれば、農産物の輸入が増え、自給率がさらに低下する恐れさえある。

 日本には、「半導体やら自動車やらを売って、そのお金で海外から食料を買えばよい。」という意見もある。だが、お金さえあれば、いつでも食料が買えると思っているとしたら、それは大間違いである。生産国が冷夏や干ばつなど異常気象などで不作になったが最後、とたんに輸入が途絶えてしまうといった危険もあれば、地域紛争によって輸入がストップするような事態もあり得るのである。2030年に89億に達する世界人口の増加、砂漠化などによる農地の減少、地球温暖化に伴う水資源の枯渇など、食料危機はいつ始まってもおかしくない状況なのである。

 こうした不測の事態に備えるのは国の義務であり、「食料安全保障」の観点からも、農業の保全と自給率の向上は、ぜひとも必要なのである。同じ島国であるイギリスは、1970年度の食料自給率は46%だったが、 小麦などの増産に励み、2000年度には74%にまで高めることに成功した。日本と同じ山がちな国土を有するスイスに至っては、憲法にまで小麦の自給率を明記する徹底ぶりであり、1970年には40%台だった食料自給率を、2000年には60%にまで回復させている。日本だけが今のままでいいわけがない。それなのに、日本では、今も毎年2、3万人が離農し、1%程度の農地が失われているのである。

 

第25課 高まる改憲論、日本はどこへ行く

日本国憲法が1947年に施行されてから5月3日で57周年を迎えた。憲法記念日に際して、主要各紙は憲法に関する世論調査を実施した。朝日新聞が調査したところ、「改正する必要がある」が53%で、「改正する必要はない」は35%だった。9条については「変える方がよい」が31%(前回17%)に増加し、「変えない方がよい」は60%(前回74%)に減少した。朝日新聞以外の主要各紙でも、ほぼ同様の結果が出ている。

 思えば、憲法改正論議の転機となったのは、1991年の湾岸戦争をめぐる国会論議だった。湾岸戦争の際、日本は「憲法上(第9条)の制約」を理由に軍事活動へは参加できないとし、かわりに総額130億ドルの支援をしたが、多国籍軍に参加した諸国からは、「人的貢献」がないという厳しい批判にさらされた。この反省から、海部内閣は、1991年、自衛隊の海外派遣を可能にする「国連平和維持活動協力法案(PKO協力法案)」を国会に提出した。国際貢献のあり方をめぐって、激しい論争が展開され、結局、人道的援助と武力行使を伴わない後方支援を条件に、1992年6月に多数決で可決された。しかし、一旦自衛隊海外派遣の道が開かれると、小泉内閣は、2001年9月の米同時多発テロ以降、アフガニスタン戦争の後方支援を口実にして、海上自衛隊艦艇をインド洋に派遣し、続いて陸上自衛隊をイラクに派遣した。

 日本国憲法第9条は、その第一項で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めている。イラクへの自衛隊の派遣は、いかに人道支援という名目をつけようが、実質的には米英軍への後方支援としか言いようがなく、与党内でも「憲法と現実の乖離」を指摘する声が増大した。

 こうして改憲論議が活発化したのだが、その最大の焦点は9条の改正にある。小泉首相は、2001年、「日本近海で日米が共同行動をしていて、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということができるのか。集団的自衛権を行使できるものなら、誤解のない形での憲法改正が望ましい」と言っている。だが、9条が改正され、集団的自衛権が容認されようものなら、今までの「専守防衛」「武力行使を伴わない支援」という枠が外され、戦闘を含む日米共同作戦行動へと自衛隊の軍事行動が拡げられることになるのは、火を見るよりも明らかであろう。憲法が改正され、自衛隊がイラク戦争のようなアメリカの始める戦争に参戦するようになってから、悔やんだところで手遅れなのである。

 21世紀の日本が進むべき道は、ともすれば国連を無視し、軍事行動に走る嫌いがあるアメリカに追随する道なのだろうか、それともUNDP(国連開発計画)が提起している「人間の安全保障」の道なのだろうか。UNDPは、人間が飢餓や欠乏の恐怖から解放されることなしに世界平和の実現もないと、全世界に「力の論理」への偏重を改め、「国家の安全から人々の安全へ」「領土の安全から食糧、雇用、環境の安全へ」と、安全保障政策の発想の転換を呼びかけている。日本国憲法が示しているのも、また、平和主義にたった非軍事国際貢献であり、「我らは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。…日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」と憲法前文でも宣言しているのである。

 今、改憲勢力が憲法改正案を国会に提出できないでいるのは、9条維持の国民世論の方がまだ高いことにある。しかし、悲惨な戦争体験が風化するにつれて、9条改正論が増えているのも否定しがたい事実である。護憲か改憲か、いずれにせよ、その正念場は近づきつつある。